例え安らかでも死は「悲しい」だけで表現できない程の喪失感。年始に祖母が亡くなって

祖母の死

Leandra Rieger

年始早々に祖母が亡くなった。

89歳で老衰からの大往生だったし、痴呆も進んでいたからここ半年くらいは施設で生活をし、職員さんに見てもらえていた。
祖父母が住むのは滋賀県なのだが、年末から母と妹がたまたま帰省していたので息を引き取る瞬間にも立ち会えたらしい。私も毎年のように年末年始は海外で過ごしていたのに今年はタイミングが合わなくて日本で年越しをしていて、弟も偶然東京にいた。グリーン車だったけど、1泊2日で米原行きの新幹線のチケットも当日に予約できた。葬儀屋とお坊さんは母の同級生で以前から話がついていたし、火葬場も1/3に予約が取れた。会社も休むことなく、1/4から始業することができた。

すべてのタイミングが、とてもよかったように思う。何か重い病気に苦しんだ末の死ではなかったし、お葬式にもしっかり参列できた。祖母はすでに終活を済ませていて、微々たる遺産相続に困ることもない。祖父との相談のうえで、家族葬を行うことも決まっていた。母は三姉妹なのだけれど参列できたのは私たち家族だけで、そういう意味でも偶然にしてはよくできすぎていた。何もかもがスムーズに進んでいった。私のことを「かわいい」「べっぴんさんだね」と会う度に言ってくれる祖母の最期に立ち会えたのは幸せで、運がよかったことのように思う。

それでも、やっぱり悲しい。とても悲しい。この悲しみをどうしたらいいのかわからない自分がいる。そして、私にできることはこうして文章に喪失の一部を記すことしかないのかもしれないとすら思っている。

もちろん、祖母が私より先に死ぬなんて当然のことだったし心のどこかではいつも覚悟していた。施設に入ったと聞いたとき、ちょっとボケてきたと聞いたとき、思っている以上に死そのものがすぐそこに迫っているのだと考えていた。

頭のなかでは理解している。仕方のないことで、自然の摂理だと思う。比較的幸福な最期を迎えられたのだと納得できている。それでも、喪失感が拭えない。葬儀中は何も考えられずにぼーっとしていたら終わっていったのに、日々悲しさが少しずつ増している気がする。この悲しみを、私はどうすべきなのかわからない。紛らわすこともできなくて、あえて忘れようとする自分にも罪悪感を覚えてしまうのだった。今はただ、時が過ぎていくのを待つしかないのだと思っている。