世界にはさまざまな人が存在している
それでは、LGBTQを題材にした作品は流行っているのだろうか。そういう面はもちろんあると思う。作品数も多くなっているし、上映しているシアターも増えている。私が『エゴイスト』を見たときは、上映されてからしばらく経過しているにも関わらず席も7割くらい埋まっていたし、前の席に70代くらいのおじいさんが座っていてびびったしちょっと感動した。きちんと調べてないし感覚的な話ではあるが、確実に目にする機会が増えているのだと思う。
ある程度の収益が見込めなければ世の中に商業作品として出て来ない。何カ月も何年もかけてひとつの映画を作り、大勢の生活がかかっている。だからこそ、人の興味・関心、流行りとはどうしても切り離せない。世の中の流れや価値観、社会問題を反映させた作品をよく目にするようになるのは自然なことだと思う。
ひと昔前では、容姿端麗な白人が常に主人公だったし男女の恋愛が当たり前だった。黒人やアジア人が主人公の映画なんて誰も見ない。関心もない。だから、そもそも作られなかったのかもしれない。若者が物語の中心であり、家族の形も決まっていた。日本で作られた映画でも、大枠は変わらないだろう。
でも、この世界に存在するのはヘテロセクシュアルの白人だけではない。さまざまな人種、年齢、国籍、宗教、性的嗜好、家族観を持ち、それぞれにバックグラウンドがある。架空の存在でも、想像上の人物でもない。すぐそばに存在している。
作品で心が動かされたら社会も変わる
昔のバイト先で一緒に働いていた50代くらいの方がFBで「本物のゲイは知らないけど……」から始まる『エゴイスト』の感想を投稿していた。まあ、この方も鑑賞していたことに対してびびったしちょっと感動したのだが、彼女の思う“本物のゲイ”が存在しないわけがない。どこにだっているし、きっと街中でもすれ違っている。気が付いていないだけで。
けれど、こうして自分の生活のなかにいなかった人々の存在を認識し、考え、想像することで、自分が変わっていく。ひとつの作品によって心が動かされた人が大勢いれば、それは社会が変わることにもつながる。
映画には、世界を少しだけ広げてくれる力があるのだと思う。必ず何かしら伝えたいことがあり、鑑賞後に少しの変化をもたらしてくれる。つまらなかった、難しかった、好きじゃなかった、というのもひとつの変化である。どういう社会であるべきなんだろうか? どんな正しさを持ち合わせているべきなだろうか? 娯楽や文化として楽しめる一方で、だからこそ自分自身を考えるきっかけや人との繋がるためのきっかけになる。「流行っている」ではなく、それが当たり前になる世の中、自分であってほしいけれど。
Text/あたそ
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