「世の中」と「私」

普通、「世の中」と「私」とは体の皮膚一枚隔てていつ何時も隣り合わせにある。「世の中」が大人しく引き立て役になってくれるからこそ、「私」がきちんと主役でいられる。けれども今はどう考えても「世の中」の方が圧倒的に主張し過ぎている。悔しいかな「私」の方はすっかりそれに負けて、どうしたって背景にならざるを得ない。「私」が女としてどんな恋愛やセックスをし、どう生きていこうと語ろうとも、軽はずみな濃厚接触がともすれば「死」、ひょっとしたら「殺」にさえ繋がりかねない中では、ただただ虚しさが積み上がるばかりなのである。

未曾有の事態であることは確かだし、これからどうなるか誰にも分からないのだから満点の対応なんて無理、そんなことは分かっている。でも、少しでも安心できる材料がほしい。こういう事態に備えてこうする、と具体的なセーフティネットを用意してほしい。ところが日々打ち出されるのは意図のよくわからない突飛な対応ばかりで、大丈夫? 本当に大丈夫? と過去になく固唾を飲んで政治を見守っている。

大勢の命を救うために自宅にいることが必要だと言うのなら、多少の不自由だって我慢する、その覚悟はとっくにできている。でも、経済活動を一時停止し大勢を家の中に留めておくことには当然いろんな問題が生じるわけで、それらを放置すれば誰かが、ともすれば私が、ウィルス以外の理由で命を落とすかもしれない。それじゃあ、一体何のために我慢しているのか分からない。
今日働けないが故に、明日生き延びるためのお金を稼げなくなる人がいるかもしれない。今日登校して給食にありつけないために、その日一日ご飯を食べられない子供がいるかもしれない。
つい最近、ようやく子供の休校措置で仕事を休まざるを得なくなった親への支援策が打ち出されたが、ここでは一時水商売や風俗で働く親は補償の対象外とされた。

コロナ以前に、そもそも日本で働く女性の約半数は非正規雇用で、シングルマザーの約半数は貧困状態にあるというのが日本の社会だった。多くの女達はもともと決して盤石な体制で生きられていない。こんな状況が長らく看過されてきた日本で、水商売や風俗が女性たちのセーフティネットとして機能してきた側面があることは言うまでもない。色んな事情を抱えて、ここでしか働けない女性がいる。その子どもたちがいる。非常事態の今、それでも尚政府は彼女たちを保証の対象外としていたのだ。

「31歳、初めての処女航海 」という記事

こんな話をAMに書くのはどうなのかと思ったけれど、やっぱり必要なことだと思った。

私が初めて金井さんから依頼を受けて書いた記事は2016年、AMではなく、AMの姉妹サイトとして同編集部がスタートしたSOLOというメディアに掲載するためのものだった。当時、AMやSOLOの仕事をやっていたライターの福田フクスケ君が「SOLOの巻頭言のような記事でした」と評価してくれたその記事のタイトルはたしか「31歳、初めての処女航海 」としたと思う。離婚して再びシングルに戻って、これからは自由に自分の海を泳いでいくぞ、というような決意表明を綴ったものだ。今はもうAMに吸収されてしまったけれど、SOLOはおひとりさまライフを楽しむ女性をターゲットとしていたメディアだったので、当時の私の心境ともシンクロするところが多かった 。

あの記事の中で私はたしか“自分を幸せにできるのは自分だけ”と、そんなことを書いたと思う。私は結婚している間、絶えず心のどこかで夫に自分を幸せにしてほしいと思っていた。でも、仕事をしようと決めたとき、はたまた離婚することを決めたとき。初めて車の免許を取ったときみたいに、これで自分で自分を好きな場所に連れていける、望む幸せに導けると無性に嬉しくなった。実際には結婚していたって、専業主婦のままでいたって、自分が気付きさえすればその瞬間から誰でも手に入れられる免許に他ならなかったのだけども。

でも、今考えるとここにはもう一つ補足が必要だったと思う。それは、「自分を幸せにできるのは自分だけ」だからといって、これが、必ずしも「自分の幸せのために他人を必要としない」という意味ではないということだ。

大ヒットした映画『アナと雪の女王』でが描かれた、私達が生きていくためには必ず他者を必要とする。他者との関わりの中で自分が変わったり、相手が変わったり、そんな風に自然な営みばかりでなく、ときに相手を故意に変えようと思うこともある。でもそれ事態は何ら悪いことじゃない。