裏垢男子は身体を手に入れる

 今までの「女神」文化では、男たちはただ「見る」だけの存在だった。金を積んだり、1文字ずつ担当して「おっぱいキボンヌ」を完成させたりする側だった。

 しかし裏垢男子たちは、女性から「見られ」て性的に消費されることを待っている。
しかも、「女性は物語とか関係性がないと、イケメンでも、ちんこだけ見ても、興奮なんてしません!」という言説が世にあるけれども、裏垢男子たちは鎖骨、ペニス、腹筋、手など、パーツへのフェティシズムに応えた自撮りを用意して待っている。
さらに、「#裏垢女子(男子)と繋がりたい」というハッシュタグをお互い用意して、マッチングが成立している(っぽい)というのがすごい。

 外見を見られる、褒められるというのは、一種の気持ち悪さ、中身で評価してもらえない不自由さと表裏一体だ。そしてフェミニズムは、男から女へのその視線の気持ち悪さ、非対称性を問題化してきたし、そのことは全く正しい。私も連載第1回でこれを論じてきた。しかし、男は男で苦しみがある。

 著名なフェミニスト、上野千鶴子はこのことに早くから気付いていた。上野は、身体が主体にとっての客体として発見されるものであるがゆえに、「性別二元制のもとでは女性が過度に客体としての身体へと疎外されるのに対し、男性は自分自身の『身体からの疎外』を経験する」(『差異の政治学』p. 213)と述べている。
簡単に言うと、女性は男性からエロい目で「見られる」存在として自分の肉体を意識せざるをえないという苦しみがあるのに対し、男性はただ「見る」ためだけに存在するあまり誰からも「見て」もらえず、身体感覚がない、自分の身体を愛せないという苦しみがある(あった)のだ。

 だが、「見て」もらえないという男性の状況は、徐々に変わっている(このあたりのことは『ユリイカ 臨時創刊号 イケメン・スタディーズ』にも詳しい)。この時代の変化を反映したのが「裏垢男子」なのだろう。

 上野はもっと昔の本でも「身体の客体化のおかげで身体イメージを獲得できている女と、主体化のおかげで身体イメージが存在しない男と、どちらの方の疎外が深いのか」(上野千鶴子『スカートの下の劇場』p. 165)と問うている。
もちろん、そんなもの比べようがない。だが少なくとも、「裏垢男子」たちは「身体への疎外」の苦しみと引き換えに自分の身体を得ることを選んだ人々であり、私も性的に恵まれた身体を持っていたならば、きっとその道を選んだだろうと思うのだ。
オオアリクイの顔みたいな私の愚息を晒すつもりは今のところないが、万が一、「あれ? こいつ服部じゃね?」という裏垢男子を見つけても、どうかそっとしておいてもらいたい。

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Text/服部恵典

次回は <女性向けAVに挑戦した“鬼畜メーカー”の意図――若き日のしみけんと幻の作品>です。
SILK LABOを擁するソフト・オン・デマンドより前にも、女性向けAVに挑戦した有名メーカーがありました。安達かおるが設立し、バクシーシ山下、カンパニー松尾などを育てたV&Rプランニングです。「ヤバい」ドキュメンタリー作品で有名なメーカーがなぜ女性向けAVを…?若い頃のしみけんにも注目です!