死にうる存在としてのAV女優
これまでにも、急死したAV女優はいた。たとえば林由美香であり、飯島愛だ。
紙幅の関係上、林の死についてのみ述べるが、これは平野勝之監督のドキュメンタリー映画『監督失格』に詳しい。
私の23年間で出会った映画のなかで、最も強烈で、最も好きな映画かもしれない。
かつてプライベートで愛人関係をもっていた林と平野。2人のハメ撮り自転車旅行はAV化されただけでなく、『由美香』としてドキュメンタリー映画化もされている。
平野は『由美香』の感覚が忘れられず数年ぶりに林を撮ろうと打ち合わせを重ねていたが、撮影当日、林は現場にやってこなかった。
ハメ撮り師としての直感なのか職業病なのかカメラを回したまま、林を心配した平野は彼女の親とともに部屋を訪れるのだが、そのとき、ひっそりとひとり亡くなっていた林の死体を発見してしまうのだ(カメラからは死角になっている)。
そのシーンの緊迫感といったら、フィクションでは絶対に演出不可能である。
林の場合も、その死因をめぐって憶測が飛び交った。
死体の第一発見者である平野がビデオカメラをもっていたことが、あまりに「できすぎ」ていたために、平野による殺人説さえあった。
AV女優の周りには、黒い噂を引き寄せる磁場があり、俗で下品な憶測を呼び込む言説の力学がある。その根っこには、女優の存在をクスリや犯罪や不幸と結びつけようとする蔑視があるのだ。
今回、紅音ほたるの死をめぐって感じた私の怒りの源はここにある。
画面の向こう側にある人生
社会学者の赤川学は、鈴木涼美との対談で「私の人生が変わったのは好きだったAV女優たちが死んでからなんです。林由美香や飯島愛、九〇年代にあれほど好きだった人たちがあっさり死んでしまったことで、生きる意味を考え直しました」(『PONTO』vol.2)と語った。
AV女優の死とは、「愛する女性」の死だ。これは大げさではない。
なのにどうして、人々は紅音ほたるを静かに送ってやることができないのか。
人は死ぬ。簡単に、突然に、死ぬ。
運命によってタイミングは違えど、それを避けることは決して出来ない。
現在進行形で「死んでいく」存在が人間なのだ。
女優たちは、AVを再生すれば何度でも息を吹き返すかに見える。
画面表面のその姿は光の錯覚が見せているだけで、その意味では比喩ではなく物理的に「モノ」だ。だから我々は、画面の向こうに人間が、人生が、存在していることを忘れてしまうのかもしれない。
しかし、フレームの外側で、女優は死にうる。その事実に気づくことこそが、女優を「モノ」から「人」にするのである。
* * *
女性を道具化して楽しんでおいて、「ああそういえば人間だった」「できれば幸せになってほしい、安らかに眠ってほしい」と祈ることは男のエゴだろうか。
全くもってその通りだと私も思う。まさに「オナニー」だ。
だが、不幸であるよりは幸福であってくれと、まやかしにすぎない「自己決定」でもいいから、「AV女優をやってよかった」と思っていてくれと願うこと、「愛する女」の死を悼むこと、これは最低限とはいえ必須の倫理である。
素朴ですまない。しかし、ここからしか、AVの倫理は出発できないのではないだろうか。
Text/服部恵典
次回は <なぜエロメンは料理するのか?――女性向けAVの料理シーンを考える>です。
AMで「ヒモが作る、いたわりご飯」を連載中のまいったねぇさん。いつも彼女とのステキな生活を綴ってくれていますが、料理が上手な男性ってみなさんどう思いますか?実はSILK LABO作品にも、料理する男性はよく出てくるそうです!たくさんの作品と厚生労働省の統計を用いて、男性の「花嫁修業」について考察します。