AV女優は「人」である
AVをテーマにした研究はそこそこ存在するが、強いて言えば、私はその中でもAVを楽しむ視聴体験や、視聴者、ファンに興味がある。
だから、AVの倫理、具体的に言えば「性の商品化」や出演強要問題については、それを専門に研究している人に比べれば知識が劣っている。
ゆえに、上半身では一生懸命AVについて真面目に考えているのに下半身では出演する女優(や男優)をオナニーのために道具化、モノ化する汚らわしい自分自身、というものをどう考えていいのか、分からないところがある。
というか、小ざかしくも、そんなことは考えないようにしているのかもしれないとすら思う。
だが最近、後頭部をガツンと殴られたように、「ああ、AV女優は『モノ』ではない、『人』なのだ」と、当たり前のことに気づいた瞬間が二度あった。
今回はAV女優の幸福と死から、AVの倫理について考えてみたい。
杏美月の結婚
『テレクラキャノンボール2013』でAV業界を越えて有名になったカンパニー松尾監督の傑作選オールナイト上映会が、8月下旬に行われた。
松尾監督の作品ももちろん最高だったが、監督引退前最後のイベント登壇ということでゲストとして登場した、タートル今田監督の『あの娘のドキュメント AV女優 杏美月のすべて』(上映版)が、個人的には一番グッときた。
何ならちょっと涙目になってしまったし、会場でDVDを購入して、人生で初めてサインをお願いしてしまったほどである。
作品では、杏が生まれ育ちAV女優として「発見」された大阪の街を、2泊3日で今田監督と2人で食いだおれツアーデートし、杏のライフストーリーを掘り下げながら、親密なハメ撮りが繰り広げられる。
だが、作品前半で彼女が語る生い立ちが、私に「女優が人間であることの自覚」を迫ったわけではない。
なにせ「語るAV女優」という存在は、なんら珍しいものではないのだから。
語ることはむしろ仕事の一部であり、それどころか語ることで彼女たちは「AV女優」になっていくのである(鈴木涼美『「AV女優」の社会学――なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか』)。
「語り」を消費することで視聴者が興奮するのはよくある話で、実際、作品前半は、杏美月のすっぴんとだらしない樽ボディが逆にエロティックで、AVとして「使える」名作だなあと思って観ていたのだ。
だから、本当に私が胸を打たれたのは、婚約者がいることを杏が今田に告白した以降だ。
特に、結婚を機に引退すると決めた杏への今田監督のメッセージが、Weekday Sleepersがメロウに歌い上げる「バラバラ」とともに流れるエンディングである。