はじらいを捨てるにはタイミングが重要
そういう意味では我々夫婦ははっきり言って「弱い」。
はじらいというより「こき時を逸した」せいで、未だにお互い屁も出来ない。
私は無職の上ひきこもりなので、常にすっぴん、寝間着と部屋着の境目は遠の昔にグラウンドゼロになり、最近は外出着との境界もぼやけてきた。
ちなみに今は肌着をあたかもロンTのように着こなす「見せるババシャツ」という上級テクを披露している。
つまり、夫の前では常にだらしない格好をしているのだが、逆にいえばどんなに汚くても常に服は着ている。
裸はおろか、下着でもうろつかない、風呂でも脱衣所できっちり肌着まで着こんでから出てくる。
このままいくと夫は、将来突然「作画:漫☆画太郎」みたいになった私の体を見ることになるかもしれない、ということである。
そうならないためにも、ちょくちょく全裸で夫の前に現れてみるべきかとも思うが、それも「全裸になるタイミング」を逃しているため難しい。
このように、はじらいを捨てるには、タイミングと勢いがとても重要である。
それを逃すと逆に夫婦生活が長くなればなるほど「今更屁とか…」という空気になってしまうので、注意が必要だ。
見せておきたい部分は徐々に、とか言わずに早めに見せておいたほうが良い。
しかし、本気で目の前で屁をこいて欲しくないという相手の前で屁をこき、さらに「お前もこけ、それが家族だ」としつこく言うことが「相互理解」か、というとそれは違う。
「はじらい」は夫婦や家族の間で必ずしも必要なものではない、時には邪魔な時すらある。
だが「礼儀」はマストである。
夫婦間だけでなく「気を許している」と「無礼」をはき違えてしまうことはよくある。
セクハラをコミュニケーションと勘違いしているのと同じだ。
「家族なんだから気遣い無用」というのは「ありがとう」や「ごめんなさい」を言わなくて良い、という意味ではない。むしろそれに比べたら屁など些末なことだ。
「ありがとうやごめん、なんて今更恥ずかしくて言えない」と言うなら、それこそ一番不要な「はじらい」である。
口で言えないならせめて屁で「ありがとう」と「ごめんなさい」が表現できるようにすべきである。
Text/カレー沢薫
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