今回のテーマは夫婦のモーニングルーティンである。
我々の朝に関しては前にも話したような気がするが、私は朝起床後、夫の朝ごはんと弁当を用意した後オフトゥンに直帰し、今から会社に行く夫の前で二度寝をかますという、今までオフトゥンごと燃やされなかったことが不思議な精神的DVを繰り返している。
おそらく今まで燃やされなかったのは「このオフトゥンを燃やしたら俺が寝るオフトゥンもなくなる」からだと思われる。
就寝分離こそが夫婦円満の秘訣とも言われるが、同一のオフトゥンを使うことで放火を免れることもあるので、やはりケースバイケースと言えよう。
ちなみに、私が無職になった時「洗濯を干すのと風呂掃除は私がやる」とは言ったのだが、いつの間にか夫の仕事に舞い戻っていた。
しかしこれは私が「やっぱりてめえがやれ」と言ったわけではなく、私が弁当とかを作っている間に夫が自らやってしまうのである。
子育てでも子供の「自主性」を妨げる親は害だと言われている、せっかく夫が自主的にやっているものを「いやいやここは拙者が」とレジ前で永遠に会計の取りあいをしている中間管理職同士みたいなことを言ったら、逆に夫のためにならないので、ここは夫の自主性を尊重することにした。
共働きが当然となった今「家事分担が偏りがち」というのは鉄板の家庭内問題の一つとなっている。
原因は「そうはいうても家事は女がやるべき」という風潮が根強いというのもあるが、最近は我が家のように逆の家も増えているようなので、徐々に性別は関係なくなりつつあるようだ。
もう1つの原因は上記のように「自主性が尊重されすぎているパターンである」つまりやらない側としては「別に自分がやれと言っているわけではないが、相手が勝手にやるからやらせている」という、もはや「やってもらっている」という意識すらない、はらわたクレアおばさん状態なのだ。
つまり、自主性を捨て、相手が自分でやるまでやらなければ良いのだ。
しかし、自主性が強いタイプは「それができない」のである。
床に何か置いてあれば拾わずにはいられないし、家に大量のアマゾソの空箱、もしくはそこに一品だけ何かをちょい残しされている箱を見たら、物を一つにまとめ、箱を解体し捨てる、という一連の動作を「我慢」することができないのだ。
つまり、汚い耐性やだらしない耐性が「弱い」ということである。
生物界というのは弱肉強食だ。
汚い耐性が弱い人間と汚い耐性が強い人間がくっつくとどうしても弱い人間の方に負担が寄りがちなのである。
しかし、単体で考えると汚い耐性が強い人間の方が強いわけではない。
何故なら社会的には、汚い耐性が弱い人の方が、清潔で几帳面など評価が高いのである。
片や耐性が強い人間は、不潔、だらしない、ドストレートに臭いなど、ここは人間の住む場所だからお前は山に帰れと言われがちな場合が多い。
つまり、野生動物であれば、サバンナで砂がついてる飯は食えないし、火が通ってない肉もちょっと、などと言っていたら餓死なので、汚い耐性は強い方が良いのだが、人間として人間社会で生きていくなら、汚い耐性は弱い方が強いのである。
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