「誰かの1番」にならなくても、「誰かの唯一」にはなれる

1人恋人がいて、1人固定のセックスフレンドがいる男の人と、よく遊んでいた時期があった。一度なにかのはずみでセックスをしてしまい、翌日そのまま渋谷のカフェで朝ご飯を食べ、それが案外楽しかったから、もともとワンナイトのつもりがダラダラと連絡をとりあうようになったのだった。3回に1回くらいはセックスをしたが、カフェで話したり、映画に行ったりするだけの日も多くて、友達とセフレと恋人のあいだのような、そんな関係性だった。

3番目となると、相手から切実に求められるものが少ない。強く嫉妬されることもないし、相手のためにしなくてはならない家事や用事もないし、急な性欲の対応をすることもない。たとえば休日に詩集を読むように、あるいは食後にデザートを食べるように、人生の余剰の部分における恋愛という感じだった。

とはいえ「君の意見を聞きたいのだけれど」と重要な話をしてくれることもあれば、「こんなお願いするのは初めてだけれど」と変わったセックスを試したりすることもあって、3番目だからといって自分が彼にとって代替可能な存在だとも感じなかった。適当にひらく詩集や頼むデザートにだってお気に入りがあるように、生活に必須でないからといって、いくらでも代わりがきくというわけではないだろう。「誰かの1番」にならなくても、「誰かの唯一」になることはできる。

そういう恋を他人に話すと、「それって都合いい女になってるんじゃないの? やめなよ、そんなクズ男」と言われてしまうこともある。でも、都合がいいことの何が悪いのだろう。たしかに結婚をちらつかせて好意を搾取しようとしたり、相手をモノのように扱って性のはけ口にしたりする人は悪質だ。でも、お互いを対等に扱い、尊重しあい、なおかつ都合がいいのなら、それは最高の関係ではないだろうか。彼との関係は私にとっても都合がよく、とても性に合っていた。

3番目というのは、ともすれば卑下したような言い方にも聞こえるし、「1番になれなかった可哀想な存在」と思われがちかもしれない。でも別に1番じゃなくたって、対等でいられるし、言いなりになる必要なんかない。嫌なことは断るし、相手を思いやるし、どちらが上でも下でもない。3番目とはいえ、私だって「彼と遊んであげている」わけで、彼に遊ばれているという意識はなかった。

3番目の恋人は、総柄シャツのような存在

誰もが3人くらい恋人がいるのが当たり前になれば、もしかしたら、けっこう面白いかもしれない。「結婚したいタイプと好きになってしまうタイプが違う」という悩みをよく聞くが、そのどっちとも付き合って、さらに「別にタイプでないけれどなんとなくお気に入りの恋人」がひとりくらいいれば、問題は解決するのではないだろうか。

ところで私は買い物に行くといつも同じようなダークピンクのシャツを買ってしまうのだが、このまえ友人に全然ちがうグリーンの総柄シャツを選んでもらったら、人生の知らなかった部分がパァッと照らされたような感じがした。3番目の恋人というのは、グリーンの総柄シャツのような存在なのかもしれない。だからもっとみんなが気軽に色んな関係性を楽しめるようになれたらいいし、私を総柄シャツとして楽しんでくれたらいいのになぁ。

Text/雨あがりの少女