わたしは道玄坂を走っていた。無心で下っていた。東急田園都市線のホームが近いはずで遠い。人、人、人。わたしの前を塞ぐ。みんな、早くどいて! わたしがどうにかなっちゃう前に。だけど、泣きながら人混みの中を走るわたしは他人の目から見ればとっくにどうかしていた。

12月が近づいてから、街に灯がともった。正しくはLED電球の明かりが街を埋めはじめた。人工的な光の点滅が、わたしじゃない人間の誕生を祝福している。生まれてきてくれてありがとう、とささやいている。ではわたしは? 都会の風の中に見知った人は一人もいない。だからわたしは叫べない。叫びに言葉を混ぜられない。

キリストには13人も弟子がいた。わたしのiPhoneにも13人の名前が並ぶ。煌々と明るい通話履歴。だけどその中に孤独を打ち明けられる名は1つもない。でもキリストも同じような気持ちだったに違いないよ。だから「この中にわたしを裏切る人がいる」と言ったんだよ。疑り深い愛を知らない人。それでも時を経て、こんなにもたくさんの人があなたの誕生日を祝ったり、お祝いにかこつけて愛し合ったり。だから、わたしよりは思われてるはずだよ、生まれてきてくれてありがとうって。
喉の奥が言葉をつくるのをやめて代わりに震える。

(ねえ、わたしは何のために生まれてきたの? わたしの存在理由はなんなの?)

涙と同期してわたしの頭の中に止めどなく流れる、問いかけ。思春期にさしかかると誰しもの胸をよぎる問い。大人になっても時折、鎌首をもたげる問い。わたしはその頭をぐっと押さえつけ、抑えつけ、無かったことに、無かったことにして。
なぜなら、その問いはわたしの日常を破壊しかねないものだったから。東京を夢の跡地にしたくない。だから東京で日常を続ける。そのためには、わたしがここに存在し続けることを、無条件に信じ続けなくてはならない。だけど、実在する人間が担保してくれていた時より、その根拠はずっと弱い。わたしの気持ち一つでこの街に居続けることは、あまりに不安定で。でもね、東京を離れたわたしなんて存在しないも同然なの。
渋谷は荒野。その果てに夕日は落ちて、妙なる調べが天より響く。

この中の一人でも、わたしの存在理由になってくれればいいのに。

身も蓋もない承認欲求。ふだんは押さえつけている気持ち。あふれ出す。恥ずかしい。止められない。だけど。

そのためにクリスマスって、「祝祭」って、あるんじゃない?

都市の祝祭。それは、押さえつけられていたものがあふれ出るためにある。ネズミが走り、人が倒れ、それを見向きもしない人、人、人があふれかえる、排気ガスで煤けた道に、灯りをともして、特別な季節に変える。その光は不思議な力をもっていて、人々に、ふだんはやらないようなことを、恥ずかしげもなくやらせてしまう。知らない人の誕生を祝ったり、愛を伝えあったり。だけどそれは、祭りの熱気にあてられたその場限りのイミテーションな行為ではなく、本当は、人々の本来の姿なのだ。日常を続けるために、絶え間なく「これまで通り」を維持し続けるために、かまってられないと捨てられてしまう高い感受性の結晶なのだ。そのクリスタルには、孤独も、涙も、自己の存在理由を欲する叫びも、在る。弱さは日常を構成するのに不要なものだ。だけど、いらないものなんてひとつもないんだよ、本当は。だから、止めようがないのは正しい。苦しまなくても、悲しまなくてもいいよ。

クリスマスにひとりぼっちの君へ。光に身を任せて。
笑われてもいい。わたしは、あの時わたしがわたしを抑えられなくなってしまったのは、クリスマスのせいだと思う。なぜならクリスマスは、祝祭だから。押さえつけられていたものが顕れるためにある季節だから。あふれ出した孤独感が体を動かして止められなくなってしまったら、君は正しく都市の祝祭を味わっている

三軒茶屋あたりで泣き止んだら、自分の存在理由は自分自身で見つけなくちゃいけないって、言葉だけはわかっていたことに初めてみたいに行きついて、新しい物語を考え始めた。翌年のクリスマス、その話を一人芝居にした。タイトルは『誕生日がこない』。それをきっかけにAMで連載をもらった。その物語は、生まれてきてくれてありがとう、おめでとう、と、自分自身に言って、幕が閉じる。そんな物語だ。

Text/葭本未織
記事初出:2019.12.11