もしも次に引っ越すなら住みたい場所があって、そこは都心に近いが住宅街で、裏に神社があり、駅から歩いて5分、まっすぐに道を進むと、図書館がある。
わたしは図書館に行くのが好きな子どもだった。小学校4年生ごろから、中学を卒業するまで、毎日図書館に行っていた。わたしの知識のほとんどがあの頃の積立貯金だ。今はそこから、つどつど引き出してるに過ぎない。ただお金と違うのは、知識はどれだけ引き出しても減らないということだ。
なんて当たり前のことは、現在から過去を振り返りそれらしい解釈をしているだけ。幼かったわたしは知識のために本を読んでいたのではない。わたしはただ、魅了されていたのだ。わたしをここではないどこかへ連れて行ってくれる「物語」に。
それは劇作家になった今も変わらない。わたしは物語を観るために劇場へ行き、物語を書くために生きている。
でも、物語ってなんのためにあるのだろう?
物語は絶望からよみがえるためにある
演劇を通して、わたしはいつもこう伝える。
甘えるな、自分の足で立って歩け! それだけが自分を自分で幸せにできる方法だ。涙をふけ、変われ! 変化する姿は何よりも美しい。だからためらうな。愛されるために生まれてきたのではない。自らの足で、自らの人生を歩むために、君は生まれてきたのだよ、と。
幕が下りると観客の拍手。ああこれはわたしの物語だ、と涙してくれる彼女たち。わたしは心から「やってよかった、本当に」と思い、次の劇場をブッキングする。今度はより大きな場所で、どうかより多くの彼女たちへ。わたしの物語が届き、苦しみをときほぐす端緒となるように。
しかし、たった一時間の上演で「変化」という美しさを見せてくれる観客に対し、作り手の性根は怠惰で頑固だ。たかだか一つの作品を創り上げたぐらいで、作家の内面は変わったりしない。いや、できないのだ。だからいつも、物語の終わりに残されるのは、何一つ変わらないわたし一人。
(失ったものたちへ、寂しくてたまらないよ。涙がこぼれてしまう。愛しているよ、愛してよ。ごめんね、いい子になるから帰ってきてよ。)
先ほどまで説いていた言葉たち。自分の足で歩くとか、走るとか、変わるとか、愛されるために生まれてきたのではない、とか。書いた本人ですら体現できない理想たち。こんなにも軽薄な現実の精神と肉体を前に、物語はなんの意味を持つのだろうか。そう嘆く君へ、わたしは言いたい。
物語は絶望からよみがえるためにある。他でもないわたしたちが。
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