脚本を手がけるのは、主演二人×監督
やっぱり男女は生き物として決定的に違う。現実では残念と絶望しかないのですが、映画にしてこの男女のすれ違いを端から見ると、とにかく笑えるのです。
なんといっても魅力的なのは、男女の台詞の数々。そこには恋愛、仕事、家族、未来すべての要素が詰まっている。哲学的に物事を考えるセリーヌの言葉に、ジェシーが理論的に言葉を添える。女の“口撃”に応戦できる男は小説家くらいなのでしょうか。それでも全然負けています。
主演の二人はまるで、あらかじめ決められた脚本とは思えない自然な言い回し。
それもそのはず。脚本はイーサン・ホーク、ジュリー・デルピー、リチャード・リンクレイターが前作同様に三人で手がけており、その才能はアカデミー賞の脚色賞にノミネートされたほど。それぞれ監督業もこなす主演二人。三つの才能が集結した、ある意味最強のラブストーリーなのです。
前作を観ていなくても楽しめるし、その後にエピソード1、2として二人の軌跡を追うことができる。
成長した部分と変わらない部分、どちらも観ていて微笑ましく思えるはずです。
いまだかつてない、“ヌードの無駄遣い”
本作ではジュリー・デルピーが当たり前のように脱ぎます。
普通、映画のヌードってラブシーン等「ここぞ!」という場面にしか出てこない。だけどこの映画は違う。これからセックス!というタイミングでケンカになり、なんとセリーヌが胸を露にしたままジェシーを責め立てる。
ラブロマンス映画で、ここまでエロもロマンも微塵も感じさせないヌードなんてあるでしょうか?
もちろん、この場面こそが『ビフォア』シリーズの真骨頂。ロマンスっていうものは所詮、一過性です。ロックンロールやアイドル以上に初期衝動で終わり、結婚、出産、その後はズルズルとおっぱいは萎み、ペニスは下がっていく。
そのリアルを18年の歳月をかけて再現し、映像化しているのです。
そりゃもう、ジュリー・デルピーは美しいです。が、やはり歳月は残酷なもので、お母さん的体型の彼女の裸を我々は見ることになる。これこそが現実を直視ってやつです。
そして、この“ヌードの無駄遣い”っぷりは、恐らくあらゆる夜の営み前後で行われていることでしょう。