心を通い合えない父と娘の、果てしなく続く怠惰な日常
ファーストシーンからだらしない。中途半端に汚い部屋でだらけた格好のタマ子が、布団に寝そべりマンガを読む。小学生? 中学生? いいえ、これが23才の女の子の姿なのです。
「ん」「んー」「んー!」
父・善次との会話はこんな返事で成り立つ。でも、その先には未来が一切見えません。「ん」で終わるしりとりのようなものです。
そして特に印象的なのは、テレビでニュースを観たタマ子が吐き出したセリフと善次の返答。
「ダメだな、日本は」
「ダメなのはお前だろ!!」
ほんっと、的確なツッコミです。
タマ子と善次の気持ちがことごとくすれ違う。タマ子の望んでいることを善次は気付かないし、タマ子が嫌がることを善次は知らない。だからといって、「家を出ていけ」と強く言えない父親にダメ出しするタマ子の超絶ダメっぷりは放っておけない。どちらも悪い人じゃないんだから、少しは心が通じ合わせて、幸せになってほしい。
観ていると、この二人をいつの間にか応援したくなっているのが不思議なものです。
タマ子の未来に答えはなく、映画にも答えがない
描き出されるのは、甲府スポーツの春夏秋冬。季節と服装は変わっても、タマ子自身は変わらない。ただ、少しずつ変化していく周囲と日常を傍観している。この緩い停滞感と絶望感。じわじわと培われていく被害妄想。それがタマ子の背中を押すのか、心を蝕むのか。
映画は、タマ子に同情するわけではない。カメラはタマ子とある一定の距離を保つ。この客観的でもなければ主観的でもない距離が、観る者の日常に溶け込むような絶妙な位置なのです。
本作はタマ子みたいな女の子を糾弾する映画でもなければ、賞賛する映画でもない。ただ、そこに流れている人間模様を切り取り、タマ子というモラトリアム女子に幾重にも折り重なる印象を植え付けています。
「こんな奴イヤだ」「こうはなりたくない」
「でもちょっと羨ましい」「でも、ちょっと可愛いじゃん」
答えのない感想こそが、この映画にとっては何よりの答えなのかもしれない。そう、タマ子には答えが見つからない、やりたいことが見つからないのです。
でも、終始ぶすっとしたタマ子が時折見せる、あどけない少女のような表情と笑顔。未来が見えなくても、ちゃんと笑える。この瞬間こそが、この映画の最大の魅力ではないでしょうか。