退屈なのは自分のせい

恋が大好きな彼女は、落ちることこそ恋の楽しみのようだった。好きな人ができて、アピールして、振り向いてもらう。この過程が楽しいと思う気持ちは凄く凄くわかる。でも、それができなくなる=退屈だっていうのは同意できない。それ、自分が退屈な人間だからじゃない?

確かに色んな人とお付き合いできる状況は、飽きない。どんどん新しい人と繋がっていけるのは新鮮な体験で、誰かとの交際が飽きたら次にいけばいいわけだから、これはそりゃ楽しいだろう。ゲームソフトを次々買ってプレイする楽しさと似ている。これはほぼ、誰にでも可能な楽しみ方だ。

じゃあ結婚はというと、今日買ったどうぶつの森を、数十年後までプレイし続けることだ。確かにこれは、一見退屈そう。でも、仮にどうぶつの森をプレイして5年経った時、面白くなくなったとして、どうぶつの森に責任ってある? ないのだ。どうぶつの森は、今日も5年後も変わらない楽しさを提供し続けてくれている。問題があるのはプレイする私にあって、楽しめなくなった自分に責任がある。楽しいか楽しくないかの手綱を握るのは常に私達であって、環境ではない。つまんないなって思ってたり、退屈だと落ち込んでいる間は、独身でも既婚でも、恋人がいてもいなくてもつまんない。だってそれは自分に問題があるから。だから、結婚している人に対して「もういいの…?もったいなくない?」って感じるのは、ちょっと違くな〜い? と思うのだ。

変わらないことだって刺激的

環境に楽しさの責任を負わせることは、物凄い消費活動だ。消費するのは楽だし、ドーパミンが出るけれど、私はあんまりその流れに入りたくない。だってその流れに入ったら、自分で試行錯誤する機会が減ってしまいそうだから。毎年新しい服を着ているよりも、同じ服を何年も色んな方法で着続けている人の方がお洒落だな、服が好きなんだなと感じることと同じように、一人の人をあらゆる方法で愛している人の方が、楽しい人だなぁと感じる。どんな人なのかが知りたくなる。だから私は結婚したのかもしれない。誰が着ても可愛く見える今季のお洋服よりも、自分じゃないと似合わない、肌に馴染んだ古い服を着たかったのだ。10年前の服を堂々と着てお洒落に見える人間になりたいから。

結婚している人や、誰かと長くお付き合いをしている人は、どうか自分の環境を退屈だと思わないでほしい。同じ会社にずっと勤めていたり、同じ街に住み続けている人にも同じことを言いたい。環境が変わらないのは、退屈なんかじゃないのだ。私たちには、変わらないものを、あらゆる形で楽しむ力がある。それは凄い才能だから、ちょっと古臭いAラインのワンピースをこれからも大切に、自分にしかできない素敵さで着続けていきましょう。

TEXT/長井短