可愛くなった先にあるもの

中学以降は、漠然と「可愛くなりたい」「美人になりたい」と思って生きてきた。こう書くと「つまりモテたいんだろ」と言われるかもしれない。でも、「美人じゃないけどモテる人」と「モテないけど美人」の二択があるなら、わたしは小学校時代から一貫して、モテない美人を選んだだろう。あんなに男子を怖がっていた、中学校時代でさえも。

そう考えた時、わたしが欲しかったのはキレイな顔ではなくて、自分を肯定できる自信だったと気づいた。手に入るなら、別に美しさでなくても何でもよかったのだ。例えば圧倒的な運動能力や、芸術的なセンスとか。そういう飛び抜けた才能が自分にないのがわかっていたから、わかりやすい「美」に焦がれたのだと思う。自分に自信がないと、他者からの評価がそのまま自分自身への評価になってしまう。美女としてチヤホヤされたいわけでなく、あの教室で何を言われても背筋を伸ばせる自分でいたかったのだと、今になって思う。

大して可愛くもなく、特別な才能を持たないわたしは、ヘラヘラ媚びて、誰かの機嫌をとってはじめて、自分はその場にいて良い人間になれる気がした。
だけど本当は、そんなことしなくても、自分の存在を肯定できるようになりたかった。だから、可愛くなるための努力は、他人の目を意識しているようで、自分で自分を認めるための祈りみたいなものだったのかもしれない。

スカートを履けなかった日々も、逆にスカートしか履けなくなってしまった日々も、ファッションは自分を閉じ込める檻になってしまっていた。
やっとファッションを楽しめるようになった今は、毎月のカードの請求額にふるえている。

Text/白井瑶

初出:2017.12.21

次回は<女はプレゼントで男はセックス・・・世の中の「愛のものさし」は本当か?>です。
彼からのクリスマスプレゼントって曲者です。彼が一生懸命選んでくれたものでも、自分があげたものとの値段の差が気になってしまったり。でも、微妙に気持ちになってしまうのはプレゼントのせいではなく、彼の愛情をプレゼントで測ってしまう自分のせいかも。白井瑶さんがクリスマスプレゼントについて考えたこととは。