どこかで新しい生活をしているのだろう

 遠くへ旅に出て行った人。私には、そういう人が何人かいます。
小学校が夏休みの間だけプール教室で一緒だった女の子とか、急に入院したまま帰ってこなかった近所のおばあさんとか、タイでトゥクトゥクを運転してくれたタイ人じゃないおじさんとか、話だけ聞いていて会ったことのない恩師の旦那さんとか。

 もう会えない人、会ったことのない人、生きているけどきっと会うことのない人たちは、私の中に同じ重たさで存在しています。みんな、会おうと思えば会えるけど、そのための理由が思い当たらない人みたいです。

 自転車はそのまま、私のところには戻らず、友人に引き取られていきました。

 ついこの間、ある帰り道に、なんとなく祖父のことを考えていました。
いつか私の背が自転車の荷台くらいしかなかった頃、祖父の配達について行ったことがあります。ぶっきらぼうだった祖父は手を繋がずに、ただ歩みを緩めて私がついて来られるように自転車を押していました。

 空にはまんまるの月が出ています。私は車輪が回るからからした音と、祖父の草履が地面と擦れる音と、荷台にくくられた箱の中で酒瓶の肩がぶつかり合う、ちりん、とも、からん、ともつかない音を聞いていました。どれもささやかな響きでした。
首が痛くなるくらい満月を見上げながら、「どうしてお月さまは付いてくるの?」と祖父に尋ねました。

 あの日と同じような、都心にしてはよく星の見える夜だったからかもしれません。悲しむわけでも、かと言って特別に楽しい気持ちでもなく、祖父はどこにいるのかを考えていました。出かけた家族の居場所を考えるような気軽さで。
ぼうっと歩いている私を後ろから、荷台つきのくたびれた自転車で、ジャンパーを着たおじいさんが追い越していきます。街灯の少ない住宅街に消えていく後ろ姿を見ながら、祖父もいまどこかで自転車に乗っている気がしました。

 火葬場では自分の人生を全うしたらまた会えるような気がしたけれど、祖父は天国では待っていなくて、もうどこかで新しい人生を送っているような気がしたのです。
それは悲しいことでも、奇妙なことでもなくて、近頃会っていない友人が、今日もどこかで生活していることを思い出す自然さに似ています。
 

Text/姫乃たま

次回は <あの日、わたしは人生の川にフラッグを立てました/姫乃たま>です。
昔のことを思い出すとき、頭に浮かぶ光景はありますか?たゆむことなく過ぎていく毎日は永遠に止まることはなく、この瞬間にも「いま」は「かこ」になります。だけど、あの朝に立てたフラッグは目印となって、あの瞬間に戻してくれます。姫乃たまさんのエッセイ第17話。