“普通の恋愛”はあくまで手段の一つ
一般的な恋愛のあり方、女性としてのあり方を定義している、あるいは縛りつけているのは、モラルや道徳観といったものですよね。結局は個々人の価値観というひどく曖昧なものでしかないのに、その平均ラインを逸脱してしまうと石を投げられたり、奇特な目で見られたりしてしまうのです。
でも、ここ最近巷で人気を集めるマンガや映画やドラマ、そして文芸作品には浮気や不倫や三角関係、ズブズブのセックス地獄から芽生える愛や身分違いの恋、近親愛まで、ありとあらゆる逸脱した恋愛、禁じられた恋愛が溢れかえっていますよね。むしろそれしかないようにすら思えるくらいです。
それはなぜか。多くの“普通の人”は“普通の恋愛”しかできないからです。だからこそ、逸脱した恋愛は人々の夢になりうるのです。
ていうかそもそも“普通の恋愛”の仕方がわからないなんて、本当にそんなことあります? 義務教育時代はいったい何を学ばれてきたのでしょうか? “普通の恋愛”に悩みもがく“普通の友人”の腹の足しにもならぬ恋愛トークを聞きながら、何を感じてきたのでしょうか? ブッダはお母上の脇の下から生まれた瞬間に東西南北に7歩ずつ歩いて「天上天下唯我独尊」と叫んだ非常に可愛げのない子どもだったそうですが、ゆうかさんはまさか生まれた瞬間から東西南北の男を食い散らかしてワンナイトラブに励んでこられたのでしょうか?
怒られてしまうかもしれませんが、ゆうかさんの“普通の恋愛”の仕方がわからないという嘆きは、意地悪な言い方をしてしまえばマリーアントワネットが庶民の一般食であるアワやヒエの味を知らないと嘆くようなものにも感じられます。
“普通の恋愛”なんてどうせ、学校や職場や合コンで出会ってお互いに(なんかイイかも……)と惹かれ合い、なんかのタイミングで連絡先を交換して毎日毎日飽きもせず他愛ないLINEを続けて、食事したり映画を観たりショッピングに付き合ったりを3回程度こなして告白・了承、さらにそこから3回目のデートでどちらかの家に流れ込んでセックスしたらひとまず完了。という、あまりにフツーで、たいしたドラマも事件もない、非常につまらないものです。
そしてそのつまらなさをゆうかさんは、実のところずっと前から知っている。だからこそ、あえてビッチ街道をひた走り続けてこられたのではないでしょうか。
“普通の恋愛”に縁遠いゆうかさんを、あるいは“普通の恋愛”に勤しむ人々を、バカにしているのでは一切ありません。最初に言ったように、恋愛したいと思える相手を見つけることができたことそれ自体が、何より尊いのです。
“普通の恋愛”を経験するのは確かに悪くないけれど、恋愛のプロセスなんて結局は手段のひとつに過ぎないのです。経験していないからといって憧れたり、目指したり、はたまた優劣をつけるようなものではない。特別視するものではないということです。