物差しをどれにするか

 人の魅力というのは、良いところも悪いところもあった上で成立しいて
それが良いか悪いかわからないけど、
自分の好きな、信じた道を行く人に、人は惹かれるのです。
正しさなんて物差しよりも、もっと自分の好き嫌いで物事を判断しては?
なんて思っちゃうんですね、私は特に。

 私は正しい道を進んで面白くない人生なら、
多少正しくなくても面白い方を選びます。だから異常と言われたり、差別をされても
あまり気になりません。だってそんなこと思われたって全然気にしてないもの。

 ということで、私は最近LGBT業界を賑わせている
某市議や某県職員の差別発言だとか、実はあんまり気にならなくて、
むしろそれに目くじらを立てている第三者を見ると
「おお恐っ!」って思ってしまうのです。
それだって差別しないことを強要する正義でしょう。
何事ももう少し適当に、寛容になれないものですかね。

私だって弱かった

 私がこんなことをいうと
アナタは強いから大丈夫だけど、それに傷つく幼いLGBTがいる、
だから異常だという意見は潰すべきだ、という意見もあります。
でもね、私だって弱かった。さらに昭和という時代は周囲も厳しかったのです。
弱かったから、親の言うことを聞いて、兄弟の中で一番かわいがられるように努力し、
学校の先生にゴマをすって、優等生を演じて勉強をし、
力をつけて大人になりました。

 大人になっても強い人や偉い人に引き上げてもらおうと媚を売りました。
その過程で嘘もつきました。
学校でいじめられそうになると
同じLGBTと思われる子にターゲットを変えさせて、
自分も加担したこともありました。
会社の偉い人の気分を良くするため、
頼まれたことは何でも引き受け、残業もたくさんし、
カラオケに行った時はその場を盛り上げるのに
手が赤く腫れるまでタンバリンを叩き続けたこともあります。

 自己嫌悪や、それでも生きたいと思う気持ちで生き続けて、
経済的にも、思考的にも自立できたのです。
ここまで来るのにどれだけの犠牲を払ったか。

 今となっては全部良い経験です。
こう思えるのも自己肯定を促す意見の中だけでは
育たなかったからこそとも思うのです。

 正しさを追求しようという空気を感じると
私は「適当に」「寛容に」と自分に言い聞かせるのです。

いつか人を切った正義という刀は、自分も切りつけてくるのだから。

Text/肉乃小路ニクヨ