ペンネームは自己実現の証
女子大生だった頃、わたしはとあるギョーカイ人のオジサンと仲良くしていて、週末ごとにクラブだパーティーだラウンジだと、あちこち連れまわされていました。そして、ある夜連れていかれたのが、鶴見辰吾さんのご自宅で開かれていたホームパーティーだったのでした。
その際に、「僕は鶴見出身だから、鶴見辰吾なんだ」と言われたことが非常に強く印象に残っていて、ペンネームを考えなくてはならない時に、ふと思い出したのです。「もしも大泉の名前をペンネームにつければ、地元の書店で大々的に売ってくれるかもしれない」と淡い期待もありました。一応言っておきますが、鶴見さんの熱烈なファンだったわけではありません。
……少し話がそれてしまいましたが、2003年以降、出会い、知り合った人のほとんどから、わたしは「大泉さん」や「りかちゃん」と呼ばれるようになりました。その中からたまたま恋に落ちて、付き合うようになった男性たちも、出会ったばかりの頃こそ「りかちゃん」とペンネームで呼んでいましたが、ほどなくして皆、本名で呼ぶようになりました。わたしも本名で呼ばれるほうが、なんとなく特別感があって好きでした。
が、一方では不満もありました。なぜならば、物書きである「大泉りか」やライター兼ヌードパフォーマーだった「栗戸理花」は、わたしの自己実現の証だったからです。本名で呼ばれることは、なんでもないわたしを認めてもらっているようで嬉しい反面、わたしが努力の末に勝ち取ったものを拒否されているような気分もあったのです。