これまで紙の日記をつけても常に三日坊主だったわたしですが、ウェブに日常を綴ることは、ずいぶん長く続いています。ツイッターを始めたのは2009年7月、ブログを始めたのは2005年9月、ミクシィを始めたのは2004年6月、タグを手打ちして作ったHPに初めて日記を公開したのは……はっきりとは覚えていないけれど大学在学中だったので1998年くらいでしょうか。印象深い出来事や、日常に感じていたこと、読んだ本、観た映画やお芝居、ライブに旅行に、恋人とのセックス(笑)と、これまで四半世紀近く、ほぼ絶えることなく赤裸々に綴ってきました。
そうした過去の投稿を“黒歴史”として都度、アカウントごと消してしまう派の人もいるけれど、わたしは自分の軌跡を残したいタイプです。ふと思いついたときに過去の投稿を見ては、青臭さ拙さ幼さにもんどり打ちつつも、その第一の羞恥波を乗り越えた後の発見――過去の記憶を穿り返されてノスタルジックな気持ちになったり、かつての親しかった友人のことを思い出したり――をしみじみ楽しむのが好きなのです。
記憶が塗り替えられていた過去の日記
時には、記憶がまるっと塗り替えられていることに気が付いて「ええっ!?」と驚くこともあります。例えば、かつて付き合っていた恋人は、束縛が酷かったり、金銭のことで揉めたりと、いま思うととんだドクズを引いたという印象です。別れ際には、殺されるかもしれないという恐怖を感じたレベルの泥沼を経験し、今となっては、「人生の選択で最もよかったことのひとつは、あの男と別れたこと」だと確信しています。
しかし、彼とようやく別れることのできたあとも、彼は「別れたくない」「(一方的に別れを告げるなんて)無責任だ」と言って、同棲していた家に3か月ほど居座っていたし、その間、わたしは住んでいない家の家賃と光熱費の負担分を支払い続けていました。その結果、私はミクシィの日記に一年の総括として「わたしの身勝手を許してくれたあの人に、今年一番の感謝と懺悔を」という投稿をしているのです。嘘でしょ!?
何度見返しても、確かにこう書いてある。わたしはこの時分には、本心から「今年一番の感謝と懺悔」を捧げたいと思っていたのです。
なのに、今のわたしには、「マジであいつ、クソだった」という記憶しかない。カレーライスを食卓に並べたところで、福神漬けがないことに気が付いたら、「えっ、福神漬けないの?」とむっと黙りこまれて、その圧に耐え切れずに近くのスーパーまで買いに行かされたり、某リリーフランキー氏のイラスト原稿を事務所まで取りに行くという仕事があり、無事にいただけたその達成感を、常日頃から氏のファンだといっていた元彼に話したら、30分ほど経って突然、「仕事で有名人に会ったって話するヤツってたまにいるけど、あれって自慢だよな?」と同意を求められて「え? それはわたしのことですか」とモヤった……というような、正直なところ酷い想い出ばかりで、今となっては怨みつらみこそあれども、感謝や懺悔の気持ちなんて一ミリもない。
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