2020年、色んなことがありましたね。誰もが変化を強いられる年でした。あっという間に9月に入り、花火大会や海の家がないだけで、夏はこんなにもヌルッと終わってしまうものなのかと、少し寂しさを感じています。
なんだかしいたけ占いの冒頭みたいな出だしになってしまいましたが、夏が知らず知らずのうちに終わる寂しさの反面、変化を強いられたことによって排除された無駄に関してはとても嬉しく思っているんです。対面である必要性のない打ち合わせのために出版社のある文京区まで行くのは本当にうんざりなんですよ。
年賀状の文章って結構ドライ
最後の愚痴はさておき、今年、色々な変化があったとはいえ、私としては「変わらない無駄」がまだまだあると思っています。例えば、年賀状。アレを「無駄」と言いきってしまうと「日本の素晴らしい伝統文化じゃないか!」と鼻息を荒くして怒る方もいるでしょう。たしかに、年賀状は普段ペンを取ることの減った現代人が手書きの温かさを感じたり、相手を想ったりできるいい機会だと思います。
しかし、年賀状に書いてある文章って結構ドライじゃないですか? 「あけましておめでとう! 元気ですか? 今年こそ会えたら嬉しいです」みたいな。仕事関係の方から来る年賀状に関しては、大体が「昨年は大変お世話になりました。本年もよろしくお願いいたします」といったゴリゴリの社交辞令なんですよ。テンプレートもいいとこなんです。こういったやりとりに関しては「資源の無駄に値するのではないのか?」と考えざるを得ないのです。
さらに「今年こそ会えたらいいね!」と互いに4年間送り合いながらも、一度も会っていない知人に対しては「互いの時間の無駄ではないか?」とどうしても思ってしまいますし、あくまで強制ではないとはいえ、”送られてきたら返さなくてはならない”という風潮はとても根強いものなので、結果的に年賀状は”年に一度強制的に強いられる無駄”と捉えています。
お祝いのお返し…それいるか?
それと結婚祝いや出産祝いなどお祝いへのお返しに対しても、無駄というか「それいるか?」と私は問いたくなるのです。
一昨年、私は”デキ婚祝い”をたくさん頂き(結果的にスピード離婚したんですけど)その際には、親に促されて親族やまともそうな人たちにはきちんとお返しをしたんです。まあ親しい友人数名に対しては「あんたのお祝い事のときに盛大なお祝いでお返しさせて」と言って、何も返していないんですけど、実際「それで良くないか?」と私は思っているんです。
だって、結婚祝いのお返しでもらうシャレた皿や焼き菓子ってマジでいらなくないですか? カタログギフトをくれる人もいますけど、正直、あの中に欲しいものとかありませんし、引き換えたこともありません。
中学生の頃に読んだ鈴木おさむさんの『ブスの瞳に恋してる』という本に「結婚式の引き出物は本気でいらないものばかりなのに『いらない』とは言えない空気がすごい。だから、僕は結婚式の引き出物の皿に僕と妻がリンゴで急所を隠した写真をプリントして、来賓が『いらね〜w』と言えるようにした」といったことが書かれていて、これはマジで名案だと思いましたね。
少し話は逸れましたが、お祝いのお返しも年賀状同様に社交辞令要素が強く、その上ほとんどがいらないものなのでやはり無駄だと思うんです。そもそも、”お祝い”なんだから「素直に受け取れや可愛くねーな」と私は思ってしまうのです。
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