なぜものに執着しないか、その理由

自分の浪費の傾向を振り返ってみると、体験に対してお金を支払っているように思う。好きな旅行もそうだ。映像や写真にあまり興味がない。自分がその場所に立たなければ意味がない。読書は時間を埋めるというよりも、興味のあることを深堀したいという気持ちが大きいから。映画は、映画館でふかふかの椅子に座りながら何にも邪魔されることなく集中して見るときが一番好きだ。

その代わり、ものにあまり執着がない。というよりも、過去や思い出に強い思い入れがないように思う。だから「買う」という行為で満足してしまうと、その先大切にすることができない。だから、私の部屋には物があまりなく、自分の持ち物に強いこだわりを持つことができないのかもしれない。

人間関係も同じで、何かをきっかけに過去のものだと判断すると、どうでもよくなってしまう。相手がどれだけいい人だろうと、心の中で「大切にしなければ」「壊れないようにしなければ」と堅く誓った人でも、一気に興味を失ってしまうのだ。だから、学生時代の思い出話にもあまり興味がない。いま学生時代の友達はほとんどいないし、同窓会にも出席しない。

自粛期間のなかで、四方八方に散らばっていた自分を拾い集めていくように、バラバラだった私の個性が、少しずつ繋がっていくような気がする。自分の本質を改めて知るには、あまりにも長すぎた。この長く向き合い続けて新たにわかった自分、知らなかった自分というのは誰しも持っているように思う。

慌ただしい日々に戻ったら、やっと見えてきた深い部分に眠っていた自分も忘れてしまうんだろうか。そう思うと、何事もなかったように日常に戻ってしまうのは名残惜しい気すらしてくる。

Text/あたそ

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