「ひとりでいるよりマシ」に込められた正直さ

この恋人が、絵に描いたようなダメ男であることは物語が進んでいくと徐々にわかっていく。仕事も失礼ながら毎月きちんと収入を得られる職とは思えなかったし、自分の思い通りにならないとすぐに怒る気性の荒さ。そばにティーナがいるのにも関わらず、おそらく浮気相手であろう女性に電話をし、甘い言葉をかける。完全にナメている。憤りを感じるほどにクソな男だった。そして、彼女もまたセックスができない人だった。恋人がどんなに彼女を求めても、難くなに断り続けている。触らせることすら、ほとんど許さない。物語のなかで明かされるのだが、恋人が悪い訳でも彼女が悪い訳でもなかった。この大きな障壁が、彼女をより孤独にしていたように私には思えた。

今挙げたシーンは、物語の流れに大きく関係してはいない。しかし、私は彼女が放った「ひとりでいるよりマシ」という些細な台詞がどうしても頭から離れない。

私という個人は、色々な要素から構成されている。たとえば、日本人、女性、未婚、東京在住、仏教徒(ということにしている)、会社員、5人家族……。好きなものも嫌いなものもたくさんあって、それらが私を構成している。この「自分を説明するための要素」がひとつでも欠ければ、私という人間がぼやけ、あやふやなものになってしまうんじゃないかと思うことがよくある。そして、正直に自分の寂しさを「ひとりでいるよりマシ」と表現できるティーナをうらやましいとも思った。私は、きっと誰か他の人に自分の気持ちをきちんと言葉にして伝えることもできない。私のなかの「寂しさ」と「恥ずかしさ」という2つの感情が同じ空間に存在していて、私のような人間が寂しいと思ったり人に伝えたりすることは絶対的な恥であり、あってはならないことだと心のどこかで認識している節がある。

ひとりで立っていられる人は強い。でも、年齢を重ねるごとに人はひとりでは決して生きてはいけないということを思い知らされる。私はずっと自立して、ひとりで生きていければと思っていた。今も実行している最中なのだけれど、どうしてもだめになってしまいそうになることがごくたまにある。その感覚は、浜辺で眺める波のように満ちては引いていくもので、決してゼロにはならない。私のなかにずっと居座り続けるものなのだろう。

寂しさや孤独を抱えることは、人が人である上で大切な要素のひとつであるように思う。その感情をもとに共同生活をしたり、社会性を持ってさまざまな世界に馴染んでいく。寂しさに鈍く、そして表すことのできない私は、人間らしさから少しずつ離れているのかもしれない。この映画を見ているときも、人間ではないのはティーナではなく、私なんじゃないか、と思ったのだった。

Text/あたそ

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