きれいごとなんて言えない。「世の中、顔じゃないよ」と否定はできないから/あたそ

容姿で判断される世界から逃げてよかった

ひとりで立つ女性 Vitória Santos

今思い返してみると、私は自分の容姿の醜さについて、考えすぎていたのだと思う。あんなに思い詰めることはなかったし、深く悩む必要もなかった。人に何かを言われても気にする必要もなければ、本来ならそこで言い返すくらいしてもよかったんじゃないだろうか。自分の容姿にコンプレックスを抱き始めてからすでに長い年月が経っているが、今さらになって本気でそう思う。

私の容姿に何か言葉をかけてくる人が極端に減ったこともあるのかもしれない。ここでいう言葉とは、「ブス」「きもい」をはじめとする私の容姿を揶揄するような言葉だ。まあ、要は悪口である。

年を取った、というのも関係しているのだろう。そして、失礼な人と出会う機会が格段に減った。社会人になって人間関係がどんどん広がって、そのほとんどの人はわざわざ約束を取り付けないと会えないような間柄で、お互いに連絡を取り合ったり、約束を取り付ける努力をしなければすぐに縁が切れてしまう。そのなかに、私の容姿や性格に対して悪口を言うことを面白いとか仲のいい証だと思っている人がいて、そういう人とは自然と縁が切れるようになった。今所属している会社の体質も比較的マシだというのもある。びっくりするようなセクハラ発言をする先輩もいるのだが、その人以外は割とまともだ。男女で差別をされることがほとんどないし、もちろん容姿についてとやかく言う人はいない。仕事の出来と、本人の性格や価値観で物事が決まっていく。

容姿以外で評価される世界で生きることができたのは、私がひとつひとつの選択をしてきたからだ。

容姿で判断される世界でどうしても生きていけなかった私は、一線を引き、できるだけ避けるようになった。たとえば、仕事の出来とか面白い話をするとかお酒をたくさん飲むとか。決定的な理由はわからないし、今後もわからなくていいと思っているが、私が傷つかないような、無理をしなくていいような、見た目以外の評価軸を持ってくれる場所・人と接するようにしている

だからなのかもしれない。私のコンプレックスは徐々に姿を現さなくなったし、以前よりも暗い気持ちになることは少なくなった。生きやすくなったとも言ってもいい。

私のなかからすべての劣等感がなくなることはない。でも、軽いものにはなった。ブスが、気にならなくなってきた。それほど気にしなくていいように思えるようにすらなった。容姿で比較される世界から、逃げてよかった。私の心の平安を考えると、自分は正しかったのだと思えてくる。