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自分の感情をサボってない?「共感」で完結してしまうことのもったいなさ

「共感」を好きになれない

本を読む女性 Priscilla Du Preez

今さらにはなってしまうが、私は「共感」という言葉があまり好きではなかったりする。

最初に断っておくと、本当に色々な人が私の文章を見てくれているのは知っている。最近は、自分の書籍の韓国語版も出た(これはただの宣伝だ!)らしい。誰かに何かを思ってほしくて文章を書いているわけではない。自分ごときが人の考えや価値観を変えられるだなんて、自惚れているつもりはない。自分より上手い文章を書ける人がこの世にはたくさんいることだって、私はよく知っている。

でも、やっぱり読んでもらえるのはうれしい。Twitter上で、書いた文章に感想をいただく機会は何度もあって、返事はなかなかできないが全部きちんと読んでいるし、本当に本当にありがたいと思っている。私の書いた文章について反対意見でもなんでもいい、何かの感情を持ってもらえるということは、私の存在を少しだけでも肯定されたような気がして、うれしくなる。晴れやかな気持ちで「書いてよかった」と思える瞬間のひとつだったりする。

時に、その感想の中に「共感」という言葉が書かれていたとしても何も思わない。私は、感想を届けてくれる誰かがどんな人なのかを知らない。文章を書くのが得意ではない方も中にはいるだろう。そもそも私はネット上で「少し怖い人」として認識されている節があって、連絡する勇気もかなり必要かもしれない。それでも、そのさまざまなハードルを乗り越え、わざわざ感想をくれる。「どうしても伝えたかったので」という言葉を添えて。それだけで十分であるように思う。

なので、自分に宛てられた「共感」の2文字はここでは除外される。たとえば、テレビを見ていても「恋愛ソングに共感!」とか「女性たちの共感を得ている映画」とか。その類の使い方だ。

メディアのキャッチコピーから雑誌や本のなかの文章まで、世の中は「共感」という、他者といかにして同じ感覚を持つことができるか? という、かなりどうでもいいことにスポットを当てすぎているのではないか、と思う。数年前から一気に目に余るようになった気がしている。

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