「共感」の先にある新しい感情を知りたい

なぜ、私が「共感」という言葉を好きになれないのか、というと自分の感情と向き合うことをサボっているように感じるからだ。わかりやすく恋愛ソングにたとえてみると、気持ちが伝わらないとか、意中の相手が自分以外に誰かを好きとか、デートの前日にワクワクしているとか色々なパターンが考えられると思うのだが、一言一句全部自分の体験に置き換えることなんてできるか!? 無理じゃない? と思っている。

まるですべてが自分の体験であるように感じる曲もあるかもしれないが、誰もが経験したような事柄が書いてあるということは、この世のほぼ全員が経験しているようなものだ。そんな軽く乗せられた感情と自分の貴重な経験を一緒くたに考えてしまうなんて、少しもったいないんじゃないだろうか……? 人の体験や感情なんて人それぞれで、誰一人として同じものを持ち合わせていないはずなのに、「共感」という言葉は、その人それぞれ異なる体験・感情をそれなりに足並み揃えてしまう、大体似ているものにしてしまっているとでもいうか。

いや、共感するだけなら、いいことなのかもしれない。自分と同じ感覚を持つ人がこの世界のどこかにいることは安心する。でも、本当に大切なのはその「共感」の先に存在する感情だ。私は、その感情をもっとたくさん知りたい。

本来は、どの部分になぜ共感し、そこから何を思うのか? というのをきちんと考える必要があると思っている。人の作った作品に対して、どの部分が特に好きなのか、自分だったらどうするのかなど深堀りできるところがたくさんあるはずなのに、「共感しました」と言ってしまうと、たった一言で完結してしまう。誰も傷つけないし、自分も傷つくことはない便利な言葉ではあるけれど、そこに具体性や個性はなく、その一言で自分の思考もストップしてしまう。うーん、やっぱり好きになれない。まあ、私の考えすぎといえばそうなんだけれど……。

世の中には、自分の理解の範疇を超える出来事が多々ある。まったく理解できない人に出会ったり、予想だにしないことに巻き込まれたりするように、まったく共感できないけれど好きな人、理解はできないけれどなぜか気になってしまうこと、というのが山ほどある。自分の感情を主体にして、同じ部分や似ている部分だけを抽出していると、新しい発見に出会う機会を失うことになるんじゃないだろうか

自分のまったく知らなかった感情、共感する部分がほとんどなく時には不快感をも覚える感情を抱く機会というのも、とても大切なことだと私は思っている。自分が何に怒りを覚え、悲しみ、興味を抱かないのかもっときちんと知っておきたいのだ。

私が文章を書いてお金をもらっているというのもあるが、自分の感情をできるだけ自分の言葉で表現しておきたい。そこには、周囲の人の感情は関係なく、自分がどんなことを思うのか真剣に向き合って、深く考える必要があると思っている。

Text/あたそ

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