悲しさよりも…

訃報を聞いたときは、驚き、混乱した。人はいつか死ぬ。全員もれなく死ぬ。年上であればあるほど、その人が私より先に死ぬ可能性は高い。それは分かりきっていたことで、誰に対してもなんとなくの覚悟みたいなものはある気がする。でも実際に直面すると、どこか現実とかけ離れている気がして、狼狽える。そう思うと、私は人の死や人生の終わりみたいなものをまだ理解しきれていないのかもしれない。

はっきり言って、悲しさなんて全然ない。だって嫌いだったし。それよりも遥かに上回る怒りの感情があった。なんだよ、死ぬって。まじでどういうことだよ。もうムカつけないじゃん。イライラできないじゃん。まあ、本当はしなくていいんだけれども。本人の希望もあって、病状は社内でも一部の人しか知らなかったし、立つ鳥跡を濁さずじゃないけど、あれだけマウント取りまくって色んな女性社員を泣かせまくった癖に綺麗に死んでいく感じにも腹が立つ。

人が死んだら、悲しいね、寂しいね、もう会えないね、そう思いながら故人との思い出を振り返るのがセオリーなのかもしれないが、いい思い出のほうが少ない。私は彼女が死んだことに対して心底怒っているのだった。

ちょっと前に、チバユウスケが亡くなった。今年は色んな人が死んでしまった。私は音楽が好きなので、それはそれは大きな衝撃だった。「あ、この人ですら死んでしまうんだ」みたいなことを考えていた。だって何をしても死ななそうだし、殺されても生き返りそうな人たちだったから。影響を受けた著名人や昔からテレビでよく見ていた芸能人が死んでしまうのは、悲しいし大きな衝撃を受ける。ふとしたときに、「ああ、この人はもうこの世にはいないんだ」と思うと、いたたまれない気持ちになる。

今年は、割と知っている人も何人か死んだ1年だった。それは病気とか自殺とか色んな理由で、大して仲良くなかったからかもしれないけれど、やっぱり私は死んだ人たちに対して激怒している。

なんで死ぬんだ。死ぬことないだろ。でも、病気なら仕方ないかも。本当にそうなんだろうか? 流石に死ぬのはないだろ、という考えても仕方ないことばかりを考える。

あれだけ、未来に対してああだのこうだのバカげたことを言って、自分の乏しい才能を心から信じて全然かっこよくない音楽をやっていて、そういう奴も今年死んで、ダッサいなって思いながらどこにぶつけるでもない怒りの感情が心の底のほうから沸々と煮える。結局、口だけじゃないか。あんたは。ずっとダサくて、一番ダサい人生の終え方して、なんなんだよ。と、今でも私はずっと怒っている。いや、死ぬってなんだよ。なんかもうちょっとあるじゃん、できたこと。そんな極端な選択をすることなんてなかったのに。最後の最後までムカついている。

故人に対して怒りの感情を向けるのは、多分間違っているのだと思う。決して正しい感情ではない。でもこれが私なりの追悼です。私にとっては怒りの感情がもっとも強いもので、それが原動力になっている部分があって、ムカついている限りはその人のことを忘れないでいられる気がする。

TEXT/あたそ