タブー視される『母親になって後悔してる』が社会に突きつけた課題

「母親になって後悔してる」が語られるようになって

by Phil Hearing

まだ読み始めて間もないのだが、イスラエルで社会学者をしているオルナ・ドーナトの『母親になって後悔してる』という本を購入した。ちょうど今、私の机の横に置かれていて、その帯には「子どもを愛している。それでも母でない人生を想う。」という強烈な文章が書かれている。

読み終えてから書けや! とは多少思うのだが、私にとってこの本のタイトルと帯に書かれた文章はまあまあ衝撃的だった。ので、何か書き残しておきたいと思った。

またひとつ、私のなかの固定概念や常識・普通がガラガラと崩れていった感覚がある。だって、母親になったことを後悔してもいいだなんて、それを誰かに話してもいいだなんて、私にとってはいけないことのひとつだと認識していたから。「母親になって後悔してる」というのは、私自身に子どもはいないから頭をかすめることすらなかった感情であると同時に、私の母親も実際は心のどこかで子どもを持ったことを後悔しているのではないか。独身のまま、子を持たない人生を考えたりするのではないか。そんなことをずっとぐるぐると考え続けている。

女性に、「母親にならなくてもいい人生」に対して比較的寛容になったのは、ここ最近のように思う。ひと昔前までは、若いうちに結婚をして、結婚を機に仕事を辞めて、専業主婦として家で夫を待ち、子どもを産んで世話をすることが絶対的な幸せで、その幸せを幸せと認識できない女は「変な人」として社会からはじき出されたじゃないですか。

子どもがいても、母親がひとりの人間であると認識されるようになったのも最近のことのように思う。食事は手作りがいいとか、保育園に預けるのは可哀想とか、手提げバッグや小物入れは愛情込めて作りましょうとか。女性は子どもが好きに決まっている。女性には母性があるから子どもを産めば誰だって母親になれる。母親になれば社会的にも認められる……そういう考え方は今の社会どこにいても目にする機会はあるし、「そういうもんなのかな?」程度には思わされ続けてきたけれど、母親は子に人生のすべてを捧げて愛し抜きながら育てなければならないという思想に随分苦しめられてきたのではないのか。

子どもに対する愛情と、社会に認められるような立派な母親になるのは別なんだろうな。社会の求める母親像があまりにも理想的すぎるのと、私の母親が本当に自分の人生を投げ打って子どもの世話をしてきたから、あまりにも自分と遠いものに感じられる。

子どもにとっての理想の母親、自分にとっての理想の母親、それに常識・普通として頭の片隅にある女性/母親としての幸せに帳尻が合わなくてズレが生じる。その先に見えるのが考えても仕方のない「後悔」なのかもしれない。