「恋を“がんばる”こと」と「幸せ」が結びつく世界から『恋せぬふたり』は解放してくれる

by Sasha Freemind

※本記事には、ドラマの内容に関する言及があります。あらかじめご了承ください。

NHKよるドラ『恋せぬふたり』には感銘を受けた。「がんばらない」幸せを掴むロールモデルを見せてくれたという意味で。

本作は、恋愛やキス、セックスがよくわからず、戸惑ってきた女性・兒玉咲子(岸井ゆきの)が、恋愛もセックスもしない男性・高橋羽(高橋一生)に出会い、自分の生き方と向き合い、周囲との関わり方を見つめ直していく物語だ。

本作のメインテーマは、他者に恋愛感情を抱かない性的志向の「アロマンティック」と、他者に性的に惹かれない性的志向「アセクシュアル」だが、それ以外の部分への「共感」もまた、SNS上で数多く見受けられた。そしてそれは、家族や恋愛に関する違和感や悩みの“あるある”が詰め込まれていたからだろう。

ドラマで繰り返し描かれる「『普通』の家族や恋愛とは何なのか」という問いや、「結婚したいわけではないものの一人でいることは寂しい」という気持ちは、多くの視聴者たちを乱反射したに違いない。もちろん、筆者もその一人である。

しかし、筆者が最も気になったのは「がんばる」という言葉だった。今回は「がんばる」をキーワードに、『恋せぬふたり』を紐解いてみたい。

幸せになるために「がんばる」

咲子の性格を一言で言うと、愛嬌のあるお気遣い屋さんだ。いつも他人を喜ばせたいというサービス精神に溢れているし、そのせいで自分を抑圧してしまうこともある。

「がんばる」という言葉がとくに頻出する第2話では、お試し同居初日に「やっぱりうまくいかない気が」と言う高橋さんに対して、「大丈夫です、私がんばるので」と言うし、家賃を払いたいという申し出を高橋さんに断られたときも「じゃあせめて家のことは私にやらせてください、私がんばるので」と言う。
咲子の元恋人である一くん(浜正悟)に、高橋さんとの同居生活について訊かれたときも「ほんとは私がもっとがんばって最高って思わせなくちゃいけないのに」と自責して落ち込む。開始15分で「がんばる」のオンパレードだ。

高橋さんとのふたりの生活に何一つ不満はないはずなのに、咲子は自分を咎める。まるで「がんばれていない自分」こそが不満の根源のように。あるいは、自分ががんばれていたら、幸せだと思えるかのように。
また、こうした“がんばりたがり屋”は咲子だけではない。咲子とよりを戻したい一くんもまた、咲子のセクシュアリティを知ってもなお、恋愛や性的な関係なしの家族になろうと咲子を説得しようとするが、そのときのセリフも「俺、ガンガン変わるから」だ。

この気持ちに共感を寄せる人も少なくないだろう。自分があれこれがんばったほうが幸せに近づけそうな気がするとか、がんばらないと幸せになれないと思う人は一定数いるはずだ。

けれども、本当にそうだろうか。どうして恋やパートナーシップを「がんばる」ことと幸せが結びついているのだろうか。

恋愛やパートナーシップを「がんばる」理由

恋愛やパートナーシップを「がんばる」ものだと思いこんでいる理由として真っ先に思いつくのは、いわゆる恋愛・婚活指南本だ。「〇〇すれば愛される」とか「行動に起こさずして理想のお相手には出会えない」といった言葉をよく目にする。

たしかに、根暗で卑屈な人よりも明るくて気立ての良い人のほうが愛されやすくはあるだろうし、家と職場の往復だけをしている生活を続けていては出会いの可能性は限りなく小さくなる。場合によっては必要な努力もあるだろう。

けれども、世の中に溢れている「がんばる」があまりに過剰だと感じられることがある。実際、「がんばらない」で、かつ人間関係に背を向けず、恋愛やパートナーシップと向き合う方法について説いた本を、私は寡聞にしてほとんど知らない。

こうした努力至上主義的な考え方について、『21世紀の恋愛 いちばん赤い薔薇が咲く』(リーヴ・ストロームクヴィスト、よこのなな訳/花伝社)では、「後期資本主義社会の『業績社会』特有の考え方(p.108)」 だとし、「業績社会」では、愛においても達成度が問われ、恋愛やパートナーシップの問題もがんばれば、乗り越え“られる”と思わせる。

逆に言うと、恋愛やパートナーシップがうまくいかない場合は、その人のがんばりが足りないのだ、という個人の責任や過失に接続してしまう。がんばらなければ幸せになれないという刷り込みのようなものは、こうした「業績社会」に端を発しているのかもしれない。

しかし、そもそも、相手ありきの人間関係は、「がんばり」で何とかできるものだっただろうか。もう一歩踏み込んで言えば、人間関係とは、努力すれば思い通りにコントロールできるものだっただろうか。

そもそも「がんばる」とは何を指しているのか、という点をもう少し解体してみる必要がある。

たとえば、恋愛指南本や婚活の現場では、「高望みせずにお相手への希望条件を一つに絞りましょう」とか「自分の悪いところを直さずして結果は出ません」などと、何かを諦めたり、自分が相手に合わせて譲歩したりすることをよしとすることが多い。そして、それが、多くの恋愛指南本や婚活の現場における「がんばる」なのだ。

たしかに、「この人と付き合いたい」とか「絶対に結婚相手を見つけたい」ということがゴールなら、こうした方法は効率的だし、それが叶えば「幸せ」にもなれるのだろう。しかし、それはすべての人に当てはまる幸せではない。

にもかかわらず、私たちは他人に合わせて自分の理想を諦める「がんばる」こそが、幸せに直結すると思い込んでしまう、あるいは思い込まされてしまうことがあるのである。