私たちはもっと「わがまま」になっていい

ドラマの話に戻ろう。同居を始めた当初、「がんばる」を連発する咲子に対し、高橋さんは「がんばるってなんでしょう」と問い返す。

その後も、咲子が家族から同居生活について詮索・干渉されて悩んでいるときは「嫌なら距離を置くとか、連絡を無視してみるとか、とにかく咲子さんが自分を殺さないで済む方法を取るべきだと思います」と言い、実家で「大切な人の前でもうモヤモヤするのは嫌だ!」と激昂したことを反省しているときは「自分がどうありたいかわからなくなるよりはよかったんじゃないですかね」と返す。

高橋さんの言葉は、咲子の「がんばる」に徹底して疑問を呈している。そして、咲子の「がんばる」は、「他人に合わせて自分を殺すこと」ではないですかと疑問を呈しているのだ。
こうした高橋さんとのかかわりを経て、自分の性的志向や自分にフィットする幸せといった、ぼんやりさせてきたことに向き合う内側と外側の荒波の中で、咲子自身も変化していく。

食べ物の好みも趣味も何もかもが合う元恋人・一くんからの恋愛感情や性的な関係なしの家族になろうというアプローチに対して、「私、一くんに無理とか我慢とかしてほしくない」と、高橋さんと暮らし続けることを選ぶ。
不倫した夫と離婚したいと思いながらも、一人になるのが怖いと自分を責める咲子の妹・みのり(北香那)に、咲子は「正直恋愛とか夫婦のことわかんないけど、みのりが大事にしたいもの、大事にしてほしい」と言って手を握る。

そして、これまで咲子に対して「自分がどうありたいか」を大切にしたほうがいいと思うと言ってきた高橋さんに対しての働きかけはとくに鮮烈な印象を残す。

大みそかには紅白を見ながら、年越しそばと天ぷらを食べるという咲子と、除夜の鐘が鳴る頃に年越しうどんを食べるという高橋さんは、それぞれの習わしを尊重して、ふたりとも、どちらも食べることにするシーンがある。今の生活について、小さい頃からに思い描いていたベストではないが、ベターではあると話す高橋さんに、咲子が「私たちの生活はベストを目指していきましょう。年越しうどんと同じですよ。やりたいこと、したいことは全部取りの精神で」と笑顔で言い放つシーンは爽快だ。

こうした流れを受けた最終話で、高橋さんは祖母の家を守れなくなることと咲子との家族(仮)を解散しなければいけなくなることが気がかりで、小さい頃からの夢への挑戦を諦めようとする。そんな高橋さんに対し、「私が、私の理由で、この家を守りたいと思った」と家に住み続けることを提案し、「私たちは別々に暮らしてたって家族(仮)です」と宣言した咲子は、心から眩しい。

既存の価値観や他人に合わせる「がんばる」から解放されたとて、楽チンなわけではない。自分の居心地の良さを探求し、他人とは違うかもしれない価値観を貫くことは、かなりのエネルギーが必要だ。

しかし、既存の型に自分を当てはめて、はみ出した部分を削ぎ落さなくても幸せになる方法はあるのだと、そしてそれはこういうかたちで実現され得るのだと、このドラマは教えてくれる。

そうした意味で、私たちはもっと「わがまま」になってもいいのかもしれない。

「私の人生に何か言っていいのは私だけ」「私の幸せを決めるのは私だけ」。

年越しそばと天ぷらを食べた後に、年越しうどんを食べたっていいし、そのことで誰かに何かを言われる筋合いもないのだ。

Text/佐々木ののか