細くて可愛いギャルに囲まれて気づく「みんなと一緒」の生きづらさ/oyumi

こないだ、約2年ぶりに東京の居酒屋に行って衝撃を受けた。場所が場所っていうのもあるんだろうけど。

右隣にはいかにも体育会系といった風貌の男。連れの女はギャルギャルしいくらいのギャル。そして左隣には、女を待っているらしい一見小綺麗な男。いずれも全員若くて、私とそう歳も変わらないって感じだ。しばらくすると男を待たせた女がやってくる。たまげた。同じくギャルギャルしすぎるくらいギャルな女だ。しかも細くて可愛い。

ギャルとギャルを連れた男たちに完全包囲された私はなんだか、まるで生け捕りにされた野良犬のよう。ギャルたちも犬で例えるなら……月2でグルーミングされた手入れのいいトイプードルといったところか。しかも血統書付きときた。

彼女たちに勝てない!って本能的に叫びそうになった。

普段の街中でならどうってことのないのに、一軍の雰囲気をまとってる男女たちに生で挟まれるのは生きた心地がしなかった。まるでクラスのみんなに馴染めなくて孤立していたあの頃のよう。

大人になればもうあんな世界とは無縁だと思っていたのに、こんなにも身近にまだ転がっていることに驚いた。まさか場所選びに間違うだけでこんなにも生きづらくなるとは。

東京に来ると「みんな」を求めてしまう

やっぱりどうも東京に来るとまわりが気になる。
意識的に自分と他人を比べることはそんなにないはずなんだけど、「みんな」を心が求めてしまうのだ。競争意識も芽生える。田舎と違って人の群れがあるからなのかもしれない。(地元じゃ一箇所にたくさんの人が集まる様子なんてスーパーやショッピングモールくらいしかお目にかかれない)

みんなきちんと身なりを整えてるから自分もちゃんとしなきゃとか、みんな手入れがされてるから自分もケアを欠かさずしなくちゃとか、なにかと一生懸命になり出す。
私がギャルに挟まれたときのあの焦りや羞恥心がまさにそれだ。髪が短い自分って男みたいで変なのかなとか、ジーパンにトレーナーで爪に何もやってない自分ってダメなのかなとか……自分は少数派で変なんだって思わざるを得なかった。

自分にとっての東京の生きづらさは、無理に「みんなと一緒」を追い求めるところにあるんだろう。しかも困ったことに、その「みんな」が具体的に何を指すのかよくわからない。