ホストに多額のお金を貢いでしまう「ホス狂い」や、ギャラ飲みと称してタクシー代をもらう「港区女子」の活動がSNSで話題になっています。彼女たちもそうですが、極普通の恋愛からも、お金は中々切り離せません。
私たちは、お金のやり取りを通じて、愛や承認欲求を満たしているのでは? という推測から本特集がスタートしました。
『〈私〉をひらく社会学』、『エーリッヒ・フロム――希望なき時代の希望』などの著書がある東京大学・出口剛司先生に「愛はお金で買えるのか?」についてお話を伺いました。
「愛」はお金で買えるようで買えない
――出口先生には、お金と愛の関係性や、承認欲求の高まりについて伺いたいと思います。
まず、「愛をお金で買えるか?」は昔からいろんなシーンで見聞きしますが、その結論というか納得できる言説にはたどり着いていない気がして。
なかなか興味深い、永遠のテーマですね(笑)。
私が愛について語るのは口幅ったいんですけども、買えるといえば買えるし、買えないといえば買えないと思うんです。
――どういうことでしょうか。
そうですね、人間と人間の「交換関係」について考えてみるといいでしょう。たとえば、モノの売り買いでは、何かほしい商品があれば、それにふさわしい貨幣を支払わないといけないですよね。そういった「何かが与えられたら、それに等しいお返しをする」という人間関係のルールを、社会学では「互酬性の規範」と呼びます。
すべての人間関係は、何かをしてもらったら、どこかで必ずお返しをしないといけないという原理で動いているので、そういう観点から見ると、愛もお金の関係も同じ「互酬性の規範」といえます。
――では、愛はお金で買える、交換できるということでしょうか。
たしかにお金で買えることもあると思うのですが、ただやっぱり本質的に違うところが一つだけあるんです。
まず「愛」の場合は、告白や婚約、結婚といったあなたとしか関係はもちませんという「排他的な関係」を約束することで成り立ちます。あなた以外に換えがきく存在がいない、ということですね。
それに対して、お金を支払うことでサービスを提供してもらう「財」の場合は、お金を持ってきた人が誰でも等しく交換できることが条件なんです。「あなたにだけ売る」、では経済は成り立ちません。「常にお金を出した人が買える」、「承認を独占できる」という状態なわけです。つまり、財の交換では「排他的な関係」は保証されません。これが、「愛」と「お金」の本質的な違いですね。
「お金」で買えるものは、いくら高額のお金を支払っても、それより多くのお金を払う人が出てくる可能性を排除するのが難しいのです。
――なるほど。この問題は「愛」と「財」、定義の違う交換の素材をもってくるからややこしいんですね・・・。
人間は、先ほど話したとおり、恋人も家族も、経済の取引も、贈与と返礼が等しい「互酬性の規範」で成り立っています。そして重要なのは、単なるお金の交換なのか、「あなただけに」になされる排他的な関係なのか、の違いです。
たとえば、お父さんが「家族のために」一生懸命働いて家にいれたお金や、恋人が時間や労力をかけて「あなたのために」選んだプレゼントは、「愛の証明」になる。一方、ただお金を家庭に入れるとか、ただプレゼントを買う場合は、財の交換になります。
――愛が買える、買えないのレトリックはここにあるわけですね。
お金そのものは交換の道具にはなるけれど、あなただけに提供するという「排他的な関係」には持ち込めない。これらが、愛がお金で買えるようで買えず、買えないようで買える、という理由になると思います。
そういうふうに考えてみると、お金と愛の関係は少しクリアになるんじゃないでしょうか。