「欲望の三角形」と男同士の絆
3Pを構成する男性2人の間に現れる、やおい・BL性。
この説明に用いたいのは、ルネ・ジラールの「欲望の三角形」理論と、それから派生した、イヴ・コゾフスキー・セジウィックの「ホモソーシャル」理論だ。
ジラールによれば、「欲望」というものは個人の内側から自然に発生するものではなく、他者のそれを模倣することによって生じる。
たとえば、「なぜその靴がほしいのか?」と尋ねられた場合、あなたは「有名なブランドだから」「持ってる服に合うから」など、何らかの理由を答えるだろう。
しかし、さらに「なぜ?」を繰り返されれば、最終的には「“みんな”このブランドを欲しがっているから」「“みんな”このコーディネートが良いと思うはずだから」というように、必ず他者の目線の存在にぶつかるはずである。
「他者」が「対象」に注ぐ欲望を、覗き見する第三者たる「私」、この3要素で構成される三角形が欲望の基本形なのだ。
社会学者の作田啓一はこの理論を、誰しも教科書で読んだことのある、夏目漱石『こころ』に応用している。
「先生」ははじめ、下宿先のお嬢さんとの結婚をためらう。
作田の解釈では、「先生」がKを下宿先に呼んだのは、お嬢さんが結婚に値する女性であることを、尊敬するライバルであるKに保証してもらうためである。
そしてKがお嬢さんへの愛に目覚めてから、「先生」はその愛を模倣して婚約に踏み切るのだ。
ご存知の通り、Kは自殺に追い込まれるわけだが、欲望の媒介者たるKの喪失は安定した三角形の喪失であり、「先生」とお嬢さんの幸福を崩壊させる力をもつ。
最終的に「先生」は、明治天皇を追って死んだ乃木希典を模倣して死んでゆくのだ。
ジラールのこの「欲望の三角形」の理論に、レヴィ=ストロースという人類学者の「女の交換」の理論を足し合わせることでセジウィックが考え出したのが、「性愛の三角形」からなる「ホモソーシャル」という概念である。
曰く、異性愛主義的なこの世の中において、「欲望の三角形」を構成する欲望の主体は男で、女は欲望の客体にすぎない。
男たちは、女を欲望の対象=モノだと見なす「女性嫌悪(ミソジニー)」、男同士で欲望を向け合ってはならないというルールである「同性愛嫌悪(ホモフォビア)」によって、「男同士の絆(ホモソーシャル)」を作り上げるのだ。
たとえば、男子校のエロ本の回し読みなんかを思い浮かべてもらえればいいだろう。あれがホモソーシャルだ。
セジウィックによれば、異性愛とは男と女の愛の絆を作り上げるものではなく、男同士が惹かれあうためのシステムなのである。
私の解釈では、セジウィックの理論で重要なポイントは、同性愛嫌悪によって成り立っているくせに、ホモソーシャルが同性愛(ホモセクシュアル)と連続しているという点にある。
ホモソーシャルとホモセクシュアルは全く別の概念である。しかし、誤読可能なほどには似ているのだ。
古くは『キャプテン翼』などから『おそ松さん』に至るまで、やおい・BL人気の高い作品は「チーム男子」性=ホモソーシャル性が宿っている。
そういえば、高校の現代文の授業で『こころ』を読んだとき、「先生」とKが実はデキてるんじゃないかと妄想したのは、私だけではないと思うがどうだろう。
難しい話が長くなってしまった。
つまり私が言いたかったのは、女性向けAVの3Pに現れるやおい・BL性も、「性愛の三角形」で構成される「ホモソーシャル」的関係性なのではないかということだ。
『Nostalgia Triangular』最終シーンでは、月野帯人の手は江波りゅうを跨いで、一徹の耳に渡される。
一徹は、その手を優しく握り返す。
ここでもまた、実は女性の存在は単なる媒介にすぎず、真の絆は男同士の間で結ばれているのである。