今回のテーマは「最近夫がやってくれたことで一番嬉しかったこと」だ。
先日早朝、二度寝をしていたら出社前の夫に起こされた。
つまり毎朝、これから会社という死地に向かう夫の前でオフトゥンと合体しているということである。
戦地に向かう夫を駅のホームで米兵と激しくチークダンスしながら万歳三唱で見送るストロングスタイルだ、まず「一度も寝ている間に頭を割られたことがない」ということを感謝すべきだろう。
しかしよく考えれば、寝ている間に頭を割ったら相手が苦しまない「今まで勘違いしてたけど、起こしてから割るのが正しいって聞いてやってみたら本当に断然スカッとしたし、相手の苦しみも長続きして、目からウロコだわ」というライフハックツイートがバズっていたような気がする。
ついにこの日が来てしまったかと、ベッドでまな板の上のノルウェー産塩サバ2枚(198円)になった私に差しだされたのは鈍器のようなバールではなく、1枚の紙きれであった。
夫の説明によると、その紙を持って所定のガソソソスタンドに行くとガソソソを1リッターにつき5円ぐらい安く入れられるらしい。
しかし、その画期的紙くずの使用期限は本日までであり、それを過ぎるとリアルダストになってしまうので、今日中に入れに行くと良い、ということだ。
この紙切れは、現時点ではガソリンが1リッターあたり5円も安くなる、つまり私より価値があるということだが、日付が変わっただけで私と同価値になってしまうのだ。
ただ、紙切れ自体が橋の下のエロ本の如く変質したわけではない。
つまり、物というのは、その物自体に価値があるわけではなく、人間が価値をつけることにより、価値のあるものになるのだ。
金だってそれに国が「一万円の価値」をつけていなければ、やたらリアルな福沢諭吉が描いてあるだけの紙きれになってしまうのだ。
つまり私自体はグラム17円という玉出価格だが、周囲が「言うても37円はするやろ」と口をそろえて言えば「そういうこと」になってしまうのだ。
宝石だって、世間的に価値があると言われているからそう思い込んでいるだけで、実は真価などわかっておらず、便所の芳香剤の中身だってショーケースにいれられていれば「ほう」とか言ってしまったりするのだ。
それに比べれば「イケメンが描かれたJPEG」のために数十万使っている人間は、ちゃんと自分の目で物事の価値を見ている、と言っていい。
などと考えている間に夫は会社に行ってしまい、私は1リッターにつき5円の価値がある紙切れを手に途方に暮れていた。
その時私は「どうすればガソリンを入れにいかないで済むか」を考えていた。
何故ならガソリンは外に出ないと入れられないからだ、そして私は外に出るのが嫌いである。
もう出会ってから15年以上も経つのに、私が死ぬほど外出したくない、ということをまだ理解していないのか、と思ったが、私とて夫が「腐った食べ物は嫌い」と知っていながら、再三腐ったものを出している。
やはり夫婦と言えど完全な相互理解など不可能ということだ。
基本的に私が外に出るのは、冷蔵庫が空になるか、頭を抱えながらロキソニンを買いに行くときだけだ、つまり生命の危機を感じない限りは出ない。
もちろん生鮮食品とてネットスーパーが使えるなら使うのだが、我が家は当たり前田の配達圏外である。
つまり外に出なければ餓死なのだが、さらに車がなければ買い物にも行けない僻地なため、ガソソソを入れなくても餓死である、おそらく我が村の死因第一位は未だに餓死だと思う。
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