ヒマラヤや南極に行かないと幸せでない人
世の中には海外どころか、せっかく比較的平和な国に生まれたのにわざわざ氷山とか世界観がマッドマックスな国とか危険なところばかりに行こうとする人がいる。
何故そんなところに行くかはそれぞれ理由があると思うが、ある冒険家の人曰く「自分はそういうところにいかないと生を感じられない」のだそうだ。
中二乙と言いたいところだが、左手の疼きだけで人は何度もゴッサムシティに行ったりはしないと思うのでマジなのだろう。
そういう冒険野郎からすると、部屋からすらでないひきこもりは何とつまらない人生に見えるか、と言うとそうではなく「自分はたまたまヒマラヤや南極に行かないと幸せを感じられないだけで、部屋の中で幸せになれるのだったら、それに越したことはない」そうだ。
つまり「足る」のレベルが高い人ほど幸せを感じるのが大変で、逆に低ければちょっとしたことで幸せになれるのだ。
スネ夫ものび太相手にマウントを取れれば満足と思っているなら幸せだが、ツイッターで定期的に100万配ることができなければサクセスしたとは言えないと思っているなら不幸である。
私も、全然売れてないけどこのご時世仕事をいただけるだけ恵まれているではないかと思うと幸せなのだが、鬼滅の刃を目標にすると、途端に世界一不幸になってしまう。
そしてパートナーとはこの「満足度」が近い方が良いと思う。
これがあまりにも違いすぎると、自分は今の生活で十分幸せと思っているのに相手はそれに不満ばかり言う身の丈を知らない人間に見えてしまうし、逆に相手から見ると自分は向上心のない怠け者に見えてしまう。
幸せレベルが同じでないとなかなか「二人とも幸せ」にはなれないのだ。
全く「夫婦が住みたい街」というテーマに触れていないが、何せ夫も就学、就職、結婚を全て市内で終わらせている人間なのだ。
おそらく、夫も私同様、都会、まして海外に行って一旗、など考えたこともないのだと思う。
よってお互い「いつかここに住みたい」というような話はしたことがない。
向上心が強い人から見ると極小範囲で燻ったまま死ぬという、何のために生まれたのか良く分からない生物かもしれないが、私の基準では割と満足しているし、夫もそうであると思いたい。
もし夫の口癖が「俺はこんなところで終わる人間ではない」で、時々「生」を感じに紛争地域に行ってしまう人間だったらお互い不幸だったと思う。
ちなみに私が「生」を感じるのは、自室でパスタかカップ焼きそばを食って喉に詰まらせている時だ。
南極に行くよりは大分安く生を実感できる。
これからは「スケールの小さい人間」ではなく「コスパが良い人間」と言うようにしようと思う。
Text/カレー沢薫
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