「機を逃した」と確信した

そしてある朝、「星野さんからのコメントきました」というタイトルのメールが届いた。
私は飛び起き、すぐさまそのメールを開こうとした。

だが思いとどまった。「今見ていいのか?」と。

見たら確実に「終わる」。一日が、というレベルではない、人生規模で私の何かが終わる。

「だが、今じゃない」

終わるのはわかっている。だが多分今ではない。私はバトルシッパーとなって、とりあえずそのメールを開けるのを保留した。

会社から帰宅後、そろそろ見ねば、と思ったが、とりあえずFGOを起動し、土方さんのボイスを一通り聞いた。
どれも良いが、細かいことを言わせて貰うと、宝具を撃つときの「よおく、見せてやる。……ああ、よく見るがいい…」の「よおく」が5000兆SSP(シコシコポイント)だ。

この声を出した人がマジで?正気か?

そう思った瞬間私は確信した、「機を逃した」と。

このメールは、起き抜けに「わーい!星野さんのコメントだー!!」と見て、その場で眼球を爆発させるのが一番、正しかったのだ。

冷静になればなるほど見ることができない。
萌えが高じすぎると怒りになるのは良くある話だが、それを超えると純粋な「恐怖」になる。

そして一週間の時が経った。

本当に、1文字も見られないまま、一週間経ったのだ。
そしてその頃になると、もう一生見られる気がしなかった。

よって「俺は見られないから、お前らが代わりに見てくれ、そしてその感想を俺に教えてくれ、書いてあることは言わなくていい、あくまで感想だけを伝えてくれ」と、複雑すぎる変態行為をツイッターあたりでするつもりだった。

そう、このメールは「ひとりではとても無理」だったのである。

私は友達が少ない。

だが、大人になるとそれで困ることも悩むことも減った。むしろ趣味の世界はひとりが至高だと思っていたし、常に「孤独のピクシブ」だった。
よって、オタクだが行動をともにするようなオタ友もいない。それでいいと思っていた。

それなのに、私はこのメールを前に「誰か、私の体が散らばらないように、2、3人で押さえておいてくれ!」と叫んでいた。

当たり前だが、返事はない。
私にはそういう友達がいない。自分がそうしてきたのだ。

健康で、仕事、生活、趣味がひとりでも回せているときは「ひとりでも生きていける」と錯覚しがちだが、それは間違いだったのだ。

大きなことでなくても、いろんな場面で「人には人の助けがいる」のだ。

今私は、その場面で、助けを求める人がいなくて立ち尽くしている。
その役割は、夫ではない。押さえ役だったのに、何故か一緒に爆発してくれるような「同志」だ。
そして、誰がどれかわからん肉片状態で「生きてて良かった」と笑いあえるような「仲間」だ。

私はもう新しい友達なんていらないと思っていたし、交友関係を広げる気もなかったのだが「それは間違いだった」と、このメールを前に私は思った。

「土方さんが好きな友達を作っておけば良かった」と。

「人生を見つめなおした」

この本のキャッチは「人生で大事なことは、みんなガチャから教わった」だが、あながち嘘ではないかもしれない。少なくとも作者はこの本のせいで今アイデンティティが崩壊している。

話が全然終わらないので、次回に続く。

土方さんの話はいつも文字数が足りない

Text /カレー沢薫

※2018年3月29日に「TOFUFU」で掲載しました