「地球は丸い」すら結構時間かかった

もちろん「年は関係ない」という世の中が実現不可なわけではない、ただすぐには無理なのだ。
何せ「地球は丸い」という今では当たり前のことですら、当たり前になるまで結構時間がかかってしまった我々人類である。
「いい歳して」「年甲斐もなく」「年寄りのスプラッシュマウンテン」のような「年相応の行動をしろ」という文化が根強い日本が、すぐに「逆に年寄りこそバナナボート」になれるわけがないのだ。

しかも、従来の当たり前を壊し、新しい当たり前を作ろうとする人間は「変人」と思われるのが常であり、最悪迫害まで受けてしまうのである。

上記の地球は丸いと主張した人も、アタオカ扱いされた上に「次は法廷で会おう」をマジでやられ、結局主張を撤回させられたが「それでも地球は回っている」と裏アカに書いた、というのはあまりにも有名だ。

コロナで一躍スターになった「手洗い」を最初に提唱した人も当時は異常者扱いされ、病院にぶち込まれた上、職員に暴行を受けて死ぬ、という救いようのない最期を迎えている。
本人は「遅えよ、みんなケツ拭いた手で飯食って死ね」と思ってるかもしれないが、死後でも手洗いと彼の功績が認められてよかった。
さもなければ、今頃我々は祈祷や生贄でコロナに対抗していたかもしれない。

つまり「年は関係ない」を当たり前にするには「年甲斐もなくバナナボートに乗って笑われる先人の血」がどうしても必要となってくるのである。

もちろん、それは誰にでも出来ることではなく、血は流したくないから、年相応ではないとされる振る舞いは控えるという人は多いだろうし、それが悪いというわけではない。

だがせめて、レッドベスト姿でバナナボートに跨ろうとする先人の足を「せやかて」と引っ張るのではなく「お前はそうなんやな工藤」と黙って見送るようにしたい。

そしてテーマである「夫婦それぞれの20代にやるべきだったこと」だが、特にないからここまで引っ張ってきたのだ。

これは「もしあの時に戻れれば」という絵空事を考える希望すらないということだが、逆に「悔いるほどのこともない」ということだ。
夫も同様で、あの時ああすれば、みたいなことを言っているのは聞いたことがない。
そして「別の相手と結婚しなおしたい」と言われても困るので、聞くつもりもない。

Text/カレー沢薫

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