木村拓哉の演技が“リアル”と呼ばれなくなったとき
ドラマと現実のリアリティを考える上でもうひとつ重要なトピックが、『ビューティフルライフ』には隠されています。
それは、木村拓哉が“リアルでナチュラルな演技”という評価をされていたのは、ひょっとしてこのドラマが最後だったのではないかということです。
90年代の北川悦吏子脚本をはじめとする恋愛ドラマでは、あれほど輝いていた木村拓哉。
しかし2000年以降、「またこの演技か」「どんな役でもキムタクになっちゃうよな」などとネット上で揶揄されることが多くなっていきます。
もちろん、中にはハマリ役で評価の高い作品もありますが、それは『HERO』など群像劇の中で“あのキャラ”が立っているような場合。
『南極大陸』など、ドラマ独特の世界観が確立されている場合、そのキャラが浮いてしまうこともしばしばです。
彼の演技が、なぜかつては“リアルでナチュラル”と言われていたのか。
それは、彼がいい意味でも悪い意味でも、いつでも“木村拓哉”というフィクションの中の存在だったからです。
誰が書いたどんな世界観のドラマでも、彼は“木村拓哉”という唯一無二のスターを演じていました。
木村拓哉を完璧に演じられるのは、木村拓哉ただ一人。
彼の演技は、だから“リアルでナチュラル”だったわけです。
そしてそれは、「芸能界」や「芸能人」が、「ドラマ」や「フィクション」と同じ“雲の上”の絵空事だった時代だからこそ、通用したことでもあります。
現実との“コミュ力”が高い男性タレントがモテる!
ところが、今はどうでしょうか。
「芸能界」や「ドラマ」は、かつてあった“雲の上”から引きずりおろされ、私たちの現実の延長として語られます。
北川悦吏子がおそらく「障害を感動の材料にしない」という高い志の下に書いたはずの『ビューティフルライフ』でさえ、現在放送したら「障害者の設定や描き方が、ドラマに都合がよすぎる」と叩かれていたと思います。
女性から人気を集める男性タレントも、木村拓哉のような“フィクションの世界を生きるスター”ではなくなりました。
小栗旬や向井理、瑛太など、最近のドラマで主演を張る男性は、もちろん飛び抜けたイケメンではありますが、ひょっとしたらすぐ近くにいてもおかしくないと感じさせる、「現実のリアリティ」があるイケメンです。
ドラマでも、木村拓哉のように強烈なクセや個性が邪魔することなく、どんな役だって柔軟に演じることができるでしょう。
つまり彼らは、「現実」に適応し、接続し、折り合いをつけるための“コミュ力”が高いのです。
世間がそれを望むようになった、というべきかもしれません。
フィクションの特権的な力に、やみくもに憧れる時代は終わったのです。
「恋愛」も、かつては「芸能界」や「ドラマ」に近いカテゴリに属する存在でした。
だから、「恋愛」と「ドラマ」の相性はよかったわけです。
でも、今は恋愛って、もっと現実的なものですよね?
10月からフジテレビ系で木村拓哉主演の月9ドラマが始まるそうですが、果たしてそれはリアリティのある「恋愛ドラマ」になり得るのでしょうか?
注目してみたいと思います。
Text/Fukusuke Fukuda
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