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あの夏。愛を知ったわたしは「人形」から「人間の女の子」になった/葭本未織

わたしの唯一の恋人

葭本未織さんの写真

終わった恋を素朴で美しい青春の一ページにする。はたしてそれは可能かしら、と、 横浜から東急東横線に乗り込んだ26歳の夏。学芸大学駅で渋谷行き普通電車に乗り換えて、空いた座席に座ったら、隣に昔の恋人がいた
手にしていたストローハットが落ちた。むかいに座るおじさんが立ち上がり拾ってくれた。頭を押し込めるように帽子をかぶる。車内は空いていた。間違いなく、彼だった。人形のように整えられた唇歯が、きれいに寝息を立てていた。

この人と結婚するのだと思っていた。否、結婚するためにこの人を選んだ。
26歳で結婚して27歳で第一子を生む。そんな人生計画を立てていたわたしは、当時19歳だった。ラストティーンの夏は最悪で、死屍累々の「初恋」が終わった。その時、少女は決めたのだ。次の相手と結婚する、と。

即座に白羽の矢が立ったのが、18歳の同級生だった。育ちの良さが肌つやで証明されているような少年だった。ふっくらとした頬がきらりと輝いたとき、少女はそこに彼の両親を見た。愛され満たされた裕福な家庭を見た。そのきらめきは、≪最初の男≫には無いものだった。
少女は安堵した。

(この人なら確実に結婚できる。それでいて彼は、わたしが教えてあげないと何もできないような「子供」なの。)

無意識に選んだ言葉には相手への侮りの気持ちが込められている。そんなことすら自覚できないぐらい彼女は幼かった。その頃の少女は恋愛というものを勘違いしていて、新しい相手に、≪最初の男≫が自分にしてくれたことすべて――毎日愛しているとささやいて、相手の自尊心をはぐくんでやること――をしてやりたかった。まるで「子供」にするように。それが恋愛だと思っていた。
目を閉じると浮かんでくる、神田川のほとりの楽園。薄暗い部屋。あの閉じた幸福の景色。もう一度見たかった。もう二度と壊れないように、今度は自分で創ろうと思った。

東急東横線は揺れるのに、あの頃よりも良い時計をしている男の子は全く起きない。終点・渋谷まで残り4駅。だけどわたしは次で降りる。

いつのまにか、彼の顔を深くのぞき込んでいたようだ。向かいに座るおじさんがけげんな顔でわたしを見ていた。気づかないふりをして、わたしはわたしで彼を見る。
少し色の薄いブルージーンズ。黒の革靴。もはやおかっぱと言ってよいぐらい伸びたきれいな髪。そのどれもが「好きじゃないからやめて」と変えさせた、彼の好みのファッションだった。まるっきり昔に戻っていた。まるで最初から何にもなかったみたいに。
「今の彼女はダサい君も好きなんだね。」
そう毒づいて去りたい。でも、できない。ただ、見つめることしかできない。なぜなら彼は、人生で唯一人の「わたしが捨てた恋人」だったから———。

東京メトロの路線図をひとつひとつ潰していくような恋だった。何も知らないこの街のほとんどを君が教えてくれた。ラストティーンの夏、わたしは東京に出てきたばかりの女の子で、君は生まれてこのかた豊島区のシティボーイだった。そういうとちょっとおかしそうに笑った。豊島区はシティじゃないよと言われたけれど、年を取ればとるほど、池袋は立派な街に見える。二人が出会った年、副都心線は池袋から渋谷を経由して横浜へとつながった。
地下鉄に乗るたびにわたしたちは手帳を開いた。最後のページに申し訳程度に載せられた路線図。小さな駅名に赤いしるしを付ける。それを何度も繰り返して、夏の終わり。ついに二人は路線図の外に飛び出した。
日本地図も世界地図も、今開くとびっくりする。君と一緒に行ったところばかりだから。

遠出の帰りにわたしの家でシャワーを浴びて、すっかりきれいになった君に靴下をはかせてやるのが何よりも好きだった。男の子の足は大きくて、そこから股に向かってまっすぐ伸びる長い脛が大好きだった。柳腰で、華奢で、細身。中性的な服装がばっちりきまる。通帳の残高は3万円なのに、似合うシャツを見つけて、跳ねるようにプレゼントしてしまったこともある。でもわたしはその倍以上、君にしてもらってばっかりだった。だから、小さなお返しのつもりだったんだよ。君は本当に尽くしてくれた。時間も、お金も、体も、心も。

でも、わたしが彼にとって誠実な恋人だったのは、本当に短い季節だった。

夏の東急東横線渋谷行き普通電車は祐天寺で止まる。ブレーキの反動で目尻がにじむ。
「ドアが閉まります」
アナウンスは二度鳴り、わたしは電車を降りた。彼は最後まで目覚めなかった。

改札を抜けると熱波が襲い来る。胸が圧しつぶされそうになるから、わたしは乗るはずのバスを逃す。今ならわかる。ティーンエイジャーの夏、閉じた部屋ではぐくみたかったのは、彼の自尊心じゃなくて、わたしの損なわれた「自尊心」だったってこと。

「自尊心」とは、その一言でまとめられがちだが、実は複数の心の動きからなるものだと思う。自分で物事を選択する自発心や、自分の力で局面を突破しようとする自立心、自分の生を無条件に認める自己肯定。さまざまな心の動きが、他者の決めた基準ではなく、「自分の決めた基準」に従って発露したとき、自尊心は生まれ、高まってゆく。

≪最初の男≫がわたしにしたのは、愛に見せかけた徹底的な「わたしの基準」の破壊だった。わたしがそれまでの人生で培った自尊心、自発心、自立心を、男は閉じた部屋の中で壊滅させた。男が去った後、わたしは廃人のようになってしまった。
どうにかしてこれまでの元気だったわたしに戻りたい。切実に願えど、やり方がわからない。動かない頭で思い付いたのが、彼の「まね」をしてみることだった。なぜなら男はわたしを「愛する」なかで、非常に満足そうな微笑みをたたえていたからだ。

(誰かを自分の「子供」のように愛せば、わたしもまた笑えるようになるんじゃないかな。)

だから少年を選んだ。まるで過去のわたしのように御しやすそうな幼さと天真爛漫さ。
でも今ならわかる。男はわたしを愛していなかった。わたしは男の「子供」ではなく、振り回して壊していいおもちゃ、「人形」だったのだ。
そう。わたしは少年にも「人形」になってもらいたかった———。

クラクション。逃したはずのバスは、出発時刻を間違えたのか、ロータリーをぐるりとまわって帰ってきた。そうしてわたしの前で停まると、大仰な音を立ててドアを開けた。わたしは思い出す。19歳の夏。少年は「人形」にならなかった。代わりにわたしに世界の広さを教えてくれた。

あの小さなメトロの路線図を、ひとつひとつ潰していくうちに、わたしは神田川のほとり以外にも東京があることを初めて知った。少年は子供には違いなかったが、輝く頬の高さと同じぐらい強固な意志を持っていた。意見が異なる時、彼は一歩も引かなかった。そしてわたしにもそうであることを求めた。だって二人は対等だったから。
だからわたしたちは他の恋人たちと同じように、信じられないぐらい小さなことで笑い、他の恋人たちには信じられないぐらい真面目な話題でケンカした。世界情勢とか、政治とか、差別とか、ジェンダーとか。
結婚にちょうどいい相手だと思って付き合った君は、簡単に御せる子供だと思って選んだ君は、気が付いたら世界でたった一人のわたしの「恋人」になっていた。どちらかがどちらかの救世主なんかじゃなく。狭い部屋に閉じこもることなく、ましてやそこを楽園だなんて思うこともなく。照り付けるような太陽の下、ストローハットをかぶって繰り出した。あの夏、君が、愛とは隷属することじゃないと教えてくれた。君がわたしを人間に戻してくれた。

冷えたバスの一番後ろに座る。エンジンの真上の席。車体全体を動かす揺れが、わたしの心の震えを隠す。動き出す車。窓のむこうをながめると、民家の軒先に風鈴が揺れていた。
同じぐらい暑い夏のある日、君の送ってくれた言葉に、気のないスタンプひとつつけて、わたしたちは終わった———。

でもね、わたし後悔していないの。自然なタイミングだった。二人が対等だったから、あっさり終わった。そう思っているの。それを≪尊く≫思っているの。わたしたち最後まで、それぞれの基準でお互いを愛したよね。お互いの基準を破壊したりすることなく。それってすっごく稀有なことだよ。そんな恋人、わたしの人生で唯一人だよ。

ストローハットのつばを握る。あの夏もかぶっていたこの帽子を、ようやくわたしは脱げそうだ。今ごろ列車は渋谷駅。あふれる人のなか、君はきっと目を覚ます。

心無い人間が奪っていった「自尊心」を取り戻す旅を、わたしはまだ続けている。旅路の歩みは電車みたいに速くはなくて、バスみたいに進んでは止まるの繰り返しなの。だけど全部の停留所が、必要だから止まってるって、近頃わかってきたんだよ。君が教えてくれたこと、ひとつも忘れずに、いつか終点に着けるように。

終わった恋を素朴で美しい青春の一ページにする。目を閉じると景色はあの夏。バスの後部座席で君とキスしたとき初めて、わたし、人形から人間の女の子になることができたんだと思う。

Text/葭本未織

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