毒も皮肉も知らない世界で純然と輝く和希と春山
何より先に言わせてほしいのは、和希の瞳よ。大きな黒目にたっぷり光を溜め込み、スクリーンの外に放つ。眩しいったらありゃしない。
能年玲奈は『あまちゃん』で見せた東北訛りから一転、不良少女の口調で“青春”を突き放す。愛を求めるが故に母の距離が遠のいていき、その分愛を失っていく自分に気づかない。
一方、和希と正反対の鋭い目つき、とはいえ闇に走るが光を求めて彷徨い歩くという意味では和希と同じ。そんな不良少年・春山を演じる登坂広臣は実年齢27歳を完全に忘れさせる。
不器用ながら和希に心を開き、一匹狼のリーダー格なのに時折見せる幼さがグッと心を掴む。
とにかく、和希の母にぶつけるセリフがズルい。
「俺がもらってっちゃうよ」
なんだそれは。こんなこと言う奴いるのか。言いたくても言えない。言ってもらいたくても言ってもらえない。
そんな青春コミックと青春映画にだけ許されたセリフの連発なのに、リアリティを邪魔することなく自然に馴染み、受け入れてしまうのがこの作品の大きな魅力なのかもしれません。
80年代の瑞々しさは、現代でデフォルメ化された恋愛を一切封じ込む。そこには「中二病」「イタイ」といった言葉が存在しない。毒も皮肉も知らない純粋な世界だからこそ、二人のドラマを輝かせるのでしょう。
青春の舞台は自ら歩き、探し出すもの?
携帯もネットもない。会う時は直接会いに行く。「チャリで来た」的ドヤ感すら滲む「バイクで来た」というシチェエーションの連続で、和希と春山の二人に隔てるものは一切ない。あるとしたら、春山のNightsの仲間への思いと、意志を貫く不良魂。
終盤は春山の一匹狼っぷりが災いし、ちょっとした鬱展開へ。同時に、和希の思いが一気に加速する。
思えば、80年代の恋愛はいかにシンプルだったのでしょうか。
現代のようにSNSストーキングも既読スルーもないわけで、会ったその時の言動や表情から恋人の現在を読み取り、そこに無駄なものが一つもない。
ワンクリックで飛べるような青春はない。自ら歩き出して青春を掴み取る。
和希は今の時代ならひきこもりになっていたに違いない。部屋から一歩も飛び出さずに自分の舞台を作っていたかもしれないが、この物語では家を飛び出して春山に出会い、居場所を作った。
これは80年代だからこそ為せるリアリティで、離れた恋人との連絡手段が家電しかなかった30代以上の人が観るとちょっと懐かしい。
本来、青春映画の物語はこうあるべきではないか。携帯もネットもないからこそ、純粋な恋愛模様が描かれるのかもしれない。和希と春山の間には現代では失われた煌めきがあり、少し寂しい気持ちにもなる。
エンディングで流れる尾崎豊の『OH MY LITTLE GIRL』こそ、今のヒットチャートにはない歌。懐古厨を湧かせる作品ではないが、今を生きる人々が失った感覚を取り戻していく。
和希の瞳が、春山の鋭い眼差しが、年代を超えて心に訴えかけてくるのです。