「愛があれば他に何もいらない」という落とし穴

世の中には時間をかけて「やっぱり違った」という結論にいたるカップルがいる一方で、「合う」と思ったフィーリングそのままに、現在も「やっぱり合うね」と思える、幸せなカップルも多く存在します。
この「やっぱり違った」と「やっぱり合う」の間には、どんな違いがあるのでしょう。

その最大の理由は、常に出来事や気持ちを分かち合い、理解を深め合うことで情報をアップデートしていることが考えられます。

意外にもやっていることはシンプルです。でも多くのカップルや夫婦は一度一緒になってしまうと、その時点から一体感や共感を高める努力をしなくなります。
「愛があれば他に何も要らない」とはよく言ったものですが、全然そんなことはなく、「愛があるからこそ、その分言葉でも分かち合うべき」なのです。

愛が強すぎてすれ違いを許したカップル

たとえば、お互い価値観が似ているね……と思って付き合った男女。しかし恥ずかしがり屋の彼女は、彼にあることを話せずにいました。それはセックスのこと。相性は悪くないのですが、終わったあとに彼がすぐに寝てしまったり、そっぽを向いてしまうことが嫌だなと思っていたのです。
賢者タイムが男にはあるものだから……と彼女は、モヤモヤを自己解決していましたが、交際期間が長くなるほど、彼の態度は、賢者タイムだけでなくセックスの内容もそっけなくなるばかり。
彼女はそれに気づいたらどんどん不満を溜め、ついには他の優しい男性に浮気してしまったそうです。

結果として別れてしまったこの2人。
改めて考えると、男性が彼女に賢者タイムでそっけなくなることや、その後の慣れからくる態度の変化も、全部その時に「こう思っているから、こうしてほしい」といった気持ちの共有がなされていたら、結果は変わっていたように思わないでしょうか。
「きっとこう思うはずだからなあ」という自己解釈をしてしまうことで、双方理解を深められず、溝を深めたわかりやすい例だと思うんです。

このように、最初に合うと思ったことや違和感を放置することで、「実は違った」という別れの芽は生み出されます。
だからこそ、言葉で日々小さくてもいいから自分を伝え、相手を知る努力を怠ってはいけない。ちなみに夫婦の満足度を高めるには、1日1時間以上会話をすること、というデータもあるそうです。
それだけ言葉のコミュニケーションって、いくつになっても大事なのです。

好きな人と感じた「合う」という気持ち。それを育て続けることこそが「愛を育む」という事なのかもしれませんね。