彼女が好きだった寿司ネタ

 女の子と付き合ったら、一度やってみたいことがあった。僕が一番好きな漫画家、ヤマシタトモコの作品の真似をすることだ。

 ヤマシタ作品のうち僕が特に大好きな2作品には、恋する男女の関係性が一変するとても大事な場面で、こんな会話が現れる。

「わたしのスキなものはね バレエと秋と紺色とコハダと あなた
 それを全部まぜて わーってやったらわたし」
「! …ぼくはアカガイがスキだな」
(ヤマシタトモコ『Love, Hate, Love.』

「…電話できなかったら メールして なんでもいいから
 …おはようとか ごはん何食べたとか
 うん そうゆうの …すしネタ何好き? とか
 ふふっ そんなん!」
(ヤマシタトモコ『BUTTER!!!』5巻)

 どちらのシーンも寿司の話をしている。ヤマシタトモコ作品では、2人の親密度が上がることの象徴、あるいは2人が交際を始めるための儀式として、「お互いの好きな寿司ネタを話す」が使われているのだ(ちなみに最新作『違国日記』でもやはり、ヒロインの2人は同棲生活初日の決起会として寿司屋に行く)。
これを再現するのが何よりの憧れだった。お互いの好きな寿司ネタを教えあえば、これからの僕らもきっと上手くいく、そう信じていた。

「……というわけなんだよ」
と、以上のことを、僕は彼女に早口で説明した。
場所は、駒場東大前の「ボラーチョ」。テレビドラマ版の『孤独のグルメ』や、よしながふみ『愛がなくても喰ってゆけます。』で紹介されていたお店である。

「だから、好きな寿司ネタの話をしたくて」
「……ふーん」

 彼女は、実につまらなさそうに相槌を打った。僕の言っていることがよく分からないし、よく分かろうとする気力ももったいないと思ったようだった。

 それでも、彼女は答えた。

「うーん、   が好きかなあ」

 ……僕にはまったく思い出せないのだ、彼女が何と答えたのか。
あんなに憧れたシチュエーションなのに、あのつまらなさそうな「……ふーん」もありありと思い出せるのにだ。

 好きな寿司ネタを、僕が何と答えたのかは覚えている。多分「サーモン」と言った。それか「炙りサーモン」。邪道だ。覚えているというか、あの頃と変わらず好きなのだ。なんて安い舌だろう。
『Love, Hate, Love.』の2人の好きなネタがコハダとアカガイであることも、いつだって覚えている。でも元カノの好きな寿司ネタは覚えていられない。

 恐ろしいのは、4年経って忘れたのではなく、聞いた次の日には忘れていたことだ。僕は恋人の好きな寿司ネタなんか、心の底ではどうでもいいと思っていたのだろう。

 全部が寿司のせいではないけれど、この2か月ぐらい後、「もう好きではなくなってしまった」と思い(でも告白したときは本当に好きだったのだ)、好きでもないのに付き合っているのが誠実ではない気がして別れてしまった。全部ひっくるめて、彼女には本当に悪いことをしたと思う。