傷ついてへこんで、心は大きくなっていく
懐が広いとか、度量が大きいとかならわかりますが、そもそも「心が大きい」という言葉はないし、普通は「心が広い」と言うものです。
それは、私が心を臓器のように想像しているからかもしれません。楽しい時に胸が軽くなって呼吸がしやすくなったり、悲しい時には胸が苦しくなって動悸がしたり、いつも胸のあたりに心の動きを感じているからです。
こんなことを書いていたら、高校生の時に物理の先生が、「感情は心ではなくて脳が~」という話をして、女の子たちに、「ロマンチックじゃないこと言うな!」と怒られていたのを思い出しました。それはさておき、心臓や膵臓が体より大きくなったりしないように、心もとっても大きくはならないようなイメージを持っているのです。でも、「器が大きい」とか「心が豊か」などと例えられるように、心は大きくなることができます。
多分、心は脳みそに似ているんだと思います(それは専門家からすれば、実際に心=脳みそなのだと思うのですが)。
あの昼休みに破れてしまった私の心は、どうなったのでしょう。
本をセロハンテープで繋ぎ合わせたように、私の心にも絆創膏のようなものがペタペタ貼られたのかもしれません。でも、セロハンテープを貼られた本が破られる前の本とは違うように、絆創膏を剥がしても私の心は完全に元には戻りません。あるいは、あの時の傷は目に見えないくらいまで修復したかもしれませんが、その後に経験したもっと取り返しのつかない悲しみや怒りや後悔は、はっきり私の心に傷となって残っているはずです。
でも、大事なのはそのことなんだと思います。
何かを知ったり、考えたりすることで、脳にシワが増えるように、傷がついたり、へこんだりすることで、心の面積も増えるのだと思います。そうやって心は広くなったり、豊かになったり、大きくなったりするのでしょう。それで私たちは、それぞれ違う形の心を持っているのです。
みんなの心が同じじゃないということは、寂しくもあるし、自由で愉快でもあります。自分の伝えたいことが少ししか伝わらないこともあれば、意図していない部分から大きな意味を汲んでもらえることもあるのです。
「うまくいかなかった」と落ち込む夜も、自分の想像していた正解に沿えなかっただけで、受け取る相手にとってはどうでもよかったり、むしろ良かったりします。反対にどんなに慎重に行動しても、誰かの気に食わないことだってあります。それはどちらも自然で仕方のないことです。
それでも私たちの心はまた傷つきます。
でも傷があるからこそ、私たちは自分でいられるのです。
Text/姫乃たま
次回は<遠くの知らない人がわたしを救ってくれるかもしれない、という切実な願い>です。
この退屈な日常を変えてくれるのは、突然現れる誰かかもしれない。子供の時からそんな期待を抱きながら過ごしてきた姫乃さん。あの事件のニュースが目にとまり、自分が学生だったときの転校生に対する気持ちに想いを馳せます。
- 1
- 2