「多くを与えられる女がいい女」なのか

 ちょっと前に見た、とある男性誌の特集を飾るキャッチコピー「女の価値は、男に失わせたものの数で決まる」はなかなか印象的だった。魅力的な女性は、とめどなく男性に貢がせる。だからこそ、いつか全てを手放させてしまう。ファムファタルと悪女は紙一重、まあそんなことを言いたいんだろうと思う。

 実際、若い女性は、主に年上の男性から、たくさんのサポートを受ける。美味しいご飯をご馳走になったり、職場でのうまい振る舞い方を教えてもらったり。これは何も、美女や悪女に限ったことではなくて、私が既婚・30歳・二児の母という当時のステイタスで初めて社会人となったときだって、社会のルールを教えてくれたのは専ら、年上の男の人だった。

 あまりによくしてもらったときには、何かこれには下心が……?なんて図々しく疑ったりもしたけれど、実際必ずしもそうじゃないのだ。下心なんてオプションみたいなもので、多くのおじさんは社会経験の浅い年下の女子を支援して、喜ばせるのが、純粋に好きなのだ。さらに言えば、女性はそのことを無意識に知っている。だからこそ、多くの女性誌ではこれまで散々「愛される」「大切にされる」「奢られる」、たくさんもらい受けるための方法が説かれてきた。

「価値ある無知」は底をつく

 普通、何かをもらったら何かをお返しするのがマナーだけれど、若い女性は無知であることそのものに価値があり、知らない世界を垣間見て驚いたり、施しを、にっこり笑って喜んだりするのがお返しとして機能する。

 仮に、すでに無知ではなくても、中には「全然知らない」って顔で、毎度毎度、新鮮なリアクションが取れる大女優だっている。無知という価値を最大化すれば、より多くを与えられるからだ。最近ツイッターでも散見されるキラキラアカウントのように、同世代の男の子がまるで知らない高級店の味を当然のように知っていたり、偉い人をいい気分にするテクニックを数多く身につけている女の子たちだ。

 一方で、糸の切れた凧みたいな生き方をしていない限り、私たちは少なからず人との縁、コミュニティとの縁をつないで生きている。長く生きれば生きるほど、辿ってきた生き方は誤魔化しが効かないものになる。いくら無知を装っても、あの環境にいながらこれを知らないのにはちょっと無理があるな、ってことになる。身につけているもの、発する言葉、そして生きた年数で、「こんなことも知らなくて可愛い」は、「こんなことも知らないのはちょっと…」に遅かれ早かれ、なる。

 つまり、女の「価値ある無知」は、無限に存在し続けない。使えばなくなる、限りある資産なのだ。

 40歳になった綾は、「一流」の教えを貪欲に吸収し続けてきた結果、もうかなり知り尽くしてしまった。「無知」と、無知が価値を持つ「若さ」を、失っていた。

 知っちゃった女にはそれ以上与えられないし、だから年齢を重ねた女は、綾が主張するように不幸になるしかないのか? そんなことはない。そんな風に考えるのはひとえに東京カレンダーの傲慢だ。
無知という資産を使い切るまでの間に、与えられた知識や経験をきちんと糧にしながら、最終的には自分の力で持続可能な土台を築いている女性は、年長者になればむしろ、人から与えられることにばかり固執せず、より楽に生きていけるようになるのだ。