いま思えば大したことじゃなかった、と思える日がきっとくる

母親は、できる限り自らを犠牲にし、最大限、苦労することが、育児にとっては“正しい”とされていて、ゆえに、少しでも楽に見える方を選んだ場合には「子どもがかわいそう」なんて言葉を投げられ、それなりに苦労しているように見えれば「さすが、母親の愛情ね」と讃えられる。

なぜ育児の様を他人にジャッジされないといけないのか。けれども、「我が家は我が家のルールでいく」と思いつつも、小さく小さく傷ついている自分もいるのです。だっていくら自分で決めた道であっても、周囲から「間違っているよ」「おかしいよ」と言われて気持ちよくはないし、あげく、「大人の都合で子どもを巻き添えにするのはいかがなものか」=「愛情が薄い」なんてこと暗に示されて、傷つかないわけがない。

そういう時に思い出すのは、まだ授乳期に、少し大きい子どものいる友人が、ツイッターで呟いていた言葉です。

「授乳期は、おっぱいが出ないことにすごくへこんでいたけれど、今となれば、正直、めちゃくちゃどうでもいいことだったな」。

本当にその通りで、置かれている状況が変わると、あれだけ自分を苦しめたり、イラつかせていた事柄が、どうでもよくなる。合コンで会った男性に冷たくあしらわれたこととか、セフレ扱いされて悲しくても、その男性から離れられなかったこと、あの時、あんなに苦しんでいた事柄のすべてが、いま思い返せば、さして大したことではなかったように思えるのです。

なので、いま何かに傷つけられていても、それもきっとすぐに「どうでもいいことだったな」と笑えようにきっとなるし、「子どもが可哀想」攻撃なんてものも、「何かぶつかった?」くらいに流していこうと、今一度、心に強く決めようと思います。

Text/大泉りか

次回は<スピリチュアルなことに一切興味がなくなった、「〇〇の母」との出来事>です。
占い・スピリチュアルに対する人々の態度は様々。占い大好き!という人もいれば。眉をひそめる人もいるでしょう。昔の大泉さんは毎週占いをチェックしていましたが、今はスピリチュアルなことにまったく興味がなくなったと言います。その原因は、有名な占い師「○○の母」との出会いだったそうで……?