変わったこと、変わらないこと/ものすごい愛

最近のわたしの暮らしぶりはというと、かなり“お母さん”だ。

毎朝決まって6時にパチッと目を覚まし、さっさと起き上がって朝の準備に取り掛かる。以前のように、けたたましいアラーム音に眉をひそめながら手探りでスヌーズ機能と格闘し、仕事に間に合うデットラインギリギリに無理矢理に気合を入れてベッドから這い出ることはなくなった。

当たり前のように働いていたはずの夕方は、子供とぬるいお風呂に浸かっておしゃべりをし、一緒に米粒まみれになりながら夕飯を食べたあと、ほとんど寝巻き姿で近所を散歩している。コンクリートの模様を拾って渡してくれるのを「ありがとう、うれしいな」と言って何度も受け取る真似をし、大人だったら大股二歩で渡り切れてしまう短くて緩やかな坂を何度も往復し、「暗くなってきたからもう帰ろうよう」と何度も何度も懇願している。
仕事を終えた解放感に包まれながら、馴染みの店で氷がたくさん入った白ワインを片手に酒場の与太話に大笑いしていたであろう時間は、まだ寝ないもん!もっと遊ぶもん!と言わんばかりの子に鼻の穴に指を突っ込まれながらも(頼む……寝てくれ……)と息をひそめて寝たふりを決め込んでいる。

休日によく行っていた煙草を吸える喫茶店とお気に入りの焼き鳥屋は、近所の公園とでっかいイオンに変わった。最近は深夜のお笑い番組よりも、おかあさんといっしょに夢中だ。
ネイルOK、髪色自由、退勤後に飲みに行きやすい立地で選んだ職場。そんな条件よりも、とにかく家から近くて休みの取りやすさを優先して転職した。
将来、子供がフィギュアスケートがやりたいだとか、東京の私立の大学に行きたいだとか言い出したときのためにちゃんと働いとかんとな……と、この歳になってようやく覚悟を決め 、ここが踏ん張りどころだと改めて学び直している。あんなに長い間好き放題やってふらふらしていたのにね。

毎日、あっという間に一日が終わる。朝起きてから寝るまでノンストップ。全力疾走……とまではいかないけれど、休憩なしで小走りの感覚。あの余白の存在が当然だった日々はガラリと変わった。

子とわたしは別の人間だという認識

今年の夏、沖縄で暮らす夫の両親が遊びに来た。たまたま義母と二人きりになったときに「毎日送ってもらってる動画を見たり、たまにテレビ電話で話したりして思うんだけど、なんだかとっても気持ちに余裕を持って育児してるよね。毎日忙しくてたいへんだろうけど、イライラしてる様子がないしいつも楽しそう」と言われた。

たしかに、毎日息つく暇がないくらい忙しいけれど、楽しくって仕方がない。子供に対して、ひぇ~!アワアワ…!となることはあっても、キィーッ!イライラッ!となったことはないかもしれない。
「あれよね、あなたっておおらかな性格だものね。とってもいいと思う」と、わたしのガサツでずぼらな性格を、義母はとても上手に形容してくれた。

子供の個性、ひとりっこであること、夫の育児・家事への関わり方の影響は大きいとは思う。それに子供はまだ2歳にも満たないし。本格的なイヤイヤ期がきたら、さすがにどうなるかわからんぞ……?

ただ、子とわたしは別の人間だという認識がある。幼いながらも彼なりの価値観と事情があり、見えている世界があって、そして尊重すべき彼自身の矜持があるのだろうな、と。彼の心身を守り、健やかに過ごせるよう養い、幸福な人生を歩めるよう親としての役割を真っ当しなくてはならないが、侵害してはいけない領域と、親の都合でコントロールしてはいけない部分もあると思っている。そして、まだしゃべれなくとも対話を怠ってはいけないということを、漠然とだがずっと頭の中にあった 。

それは、わたしが 生来、 義母の言葉を借りるとおおらかな、ガサツでずぼらな性格だからだろうか。10年前に出産してたら、今と同じような考えで子と接していただろうか。

AMで連載が始まる前のわたし

少なくとも、AMで連載が始まる前のわたしは、視野が狭く、自分以外の人間が自分とは異なる価値観を持っている事実をわかったつもりになっているだけで、その異なる価値観を真正面から受け入れられずとも理解しようとする姿勢は、たぶん持ち合わせていなかった。若さを言い訳にしてはいけないけれど、自分が他人の価値観を正しいか正しくないかのジャッジをしていい立場ではないこと、そもそも正しいも正しくないもないのだ、という認識すらなかったように思う。

AMの連載当初、毒気を孕んだキツイ言葉で悩みをバッサリぶった切ったほうが読んでる人たちはエンタメとしておもしろいのかな……と考えたこともあった。なんか、そういうのが流行ってる気がするし、とふわっとした見解だった。でも、それは完全に間違いだった。そんな軽薄な考えが一瞬でも頭をよぎったことが、わたしは今思い出してもとても恥ずかしい。

AMでの連載『命に過ぎたる愛なし』の中で、わたしはのべ142人の相談に乗ってきた。連載中、世の中にはいろんな人がいて、それぞれに異なる価値観があって、人には人の悩みと主義主張があって、その人自身が幸福と感じるものは違うと知った。当然ながら、共感できるものも、共感できないものもあった。でもどの相談者も、わたしに伝えるために、勇気を出して自己開示をしてくれ、ていねいに言葉を紡いでくれていると感じた。顔も本名も知らない、インターネットの向こう側の人間に誠実であろうとしてくれた彼女たちの存在は、確実にわたしに変化をもたらした。人の言葉に耳を傾けて、わからない部分は懸命に想像して、言葉を怠らない人間でありたいと思うようになった。そして、誰かの人生の選択を勝手に決めてしまわないこと、あくまでも選択肢の提示に留めること、否定しないことを、 連載のテーマにした。

牛乳を飲んでいたはずの子供がコップを逆さまにし、床に広がった牛乳のプールで泳いでる姿を眺めながら「なるほど、君はそれをやってみたかったのか。わたしにはない発想だったなー」と感心する。
いやいや!食べたくないもん!と食事を全身で拒否して大暴れしている子を「まあ、誰しもそういう気分のときってあるよね。そのうち自分がお腹が空いてることに気づいて食べたくなるときは必ずくるもんね」と受け止める。
おもちゃのボタンをうまく押せず泣いて、こうやるんだよと手を取り教えてやってもさらに大きく泣く子に、「思い通りにいかないと涙が出ちゃうか~そうかそうか、でも上手じゃなくても自分の感情を出すのってとっても大事なことよ」「かなしい理由や怒りん坊になっちゃう理由って人それぞれあるもんね」と寄り添う。
毎日仕事と育児に追われて、野生のイノシシが乱入したと見間違うくらい荒れた部屋で「この部屋の汚さは一生続くものではない! 人には得意不得意があり、状況によってはできないことがあって当然だろう!」と堂々と暮らしている

きっとすべてを理解できているわけではないだろうけれど、わたしは子供が生まれた瞬間から、彼に誤魔化すような嘘はつかず、 選択の提示と行動の理由を説明している。
なぜなら、こちらを向いてくれている人に対して、誠実でありたいと言葉を怠らなければ、きちんと伝わるということをわたしは知ったから。

14年も経てば、人は変わる。お金や時間のつかい方も、夢中になれるものも、物事の受け止め方も、幸福の種類も、人との接し方も、生活も、環境も。わたしは、大きく変わった。気づいたら、変わっていた。わたしに相談してくれた彼女たちも、あのときと何か変わっているはずだ。

それでも、変わらないことも確実にあって。
わたしは、相変わらず楽しく健やかに暮らしているよ。強靭なメンタルと体力はまったく衰えていない。おかげでこの慌ただしい生活もなんだかんだまわっているように思う。
先延ばし癖も、治っていません。締め切りをとっくに過ぎても連載の原稿が書き終わっておらず、担当編集さんに「ごめんなさい、まだできてなくて……」と何度謝ったことか。今も、子供の保育園の先生に「すみません、洗濯が間に合っていなくて……お着替え用のTシャツの今日の補充分、一枚足りいてません……」と謝っている。
夫のことは、出会った頃と変わらずっとずっと大好きだ。愛情は一ミリも減っていない。子供が生まれたが、わたしのものすごい愛は倍になり、それぞれに惜しみなく注いでいる。ご自愛の精神だって、当然ながら健在だ。

AMは終わってしまうけれど、もうみんなのお話しを聞く機会はなくなってしまうけれど。わたしはあなたたちが呼吸しやすい日々を送れるよう、いつだって自分軸での幸せを選んでいけるよう心から願っていることは、ずっとずっと変わらないからね。

Text/ものすごい愛