「夫婦やパートナーのあり方は人それぞれ」の、その一歩先を考える

by Charles Deluvio

今回は、異例となる前回「いろんな価値観を認めることが多様性!」と言うけれど、価値観の問題だけじゃないかもしれない」の続きである。今回分だけ読んでもらってももちろん大丈夫だけど、もし時間のある人は、前回分にも目を通してもらえたら嬉しい。

さて、前回は村上春樹のエッセイ『やがて哀しき外国語』より、「夫婦のあり方は人それぞれって言うけれど、実はそれって多様性を認めるとか価値観とかの話だけではなく、労働問題も含むのではないか」という、ぜんぜん書評になっていない書評を展開した。今回はそこから転じて、「家事、育児、あるいは介護をしている期間は、なぜキャリアにおいて”ブランク”とされるのか」みたいな問題について、勝手に考えてみたい。

このことについて間接的ながら触れられている本に、東畑開人さんの居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』がある。小説仕立てになっているこの本は、臨床心理士の主人公トンちゃんが京大で博士課程を修了し、沖縄の精神科デイケア施設で働き始めるところから物語が始まる。

なぜトンちゃんは、博士課程を修了したあと縁もゆかりもない沖縄に来ることになってしまったのか。実は、彼には就職するにあたって譲れない条件があった。1つは、「カウンセリング(セラピー)がメインの業務である」こと。そしてもう1つは、「家族を養えるだけの給料がもらえる」こと。これらの条件を満たすのがそのとき、沖縄の施設しかなかったらしいのである。『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』ではここから、新米心理士トンちゃんと、施設を利用するメンバーさん、そして同僚たちとのドタバタ劇が展開していく。

「ケア」という労働

しかし、働き始めてはみたものの、トンちゃんの仕事は順風満帆にはいかない。というか、募集要項には「カウンセリング7割、デイケア2割、他雑務あり」と書いてあったのに、実際に来てみたら「カウンセリング7割、デイケア10割」だったという、意味がわからない落とし穴にはまっていた。

ここで主人公は、「ケア」という労働について考え始める。ケアは、皿を洗ったり、洗濯をしたり、利用者さんの送迎をしたりする仕事のことだ。特別な訓練や、高度な知識を必要としない仕事である。子供や高齢者や障害者など、他者に依存せざるを得ない脆弱な状態にある人をケアする仕事であることから、「依存労働」とも呼ばれる。汚れた皿を放置し続けたらとんでもないことになるので「ケア」は絶対に必要なのだが、これらの仕事は社会的評価を得にくい。トンちゃんも、ケアの仕事ばかりをこなす日々の中で、「それでいいのか?」という内なる声に傷ついてしまう。

読んでいくうちに、本のタイトルである「居るのはつらいよ」とは、「ただ、居る(他に何もしない)ことはつらいよ」、あるいは「資本主義社会において、金銭的な価値に結びつきにくい行動をとるのはつらいよ」という意味なのだと、だんだんわかってくる。たしかに、「何もせずに迎えてしまった日曜日の夕方」とかって憂鬱だ。本を読めばよかった、映画を観ればよかった、掃除すればよかった、英語の勉強をすればよかったと後悔する。本当なら、休日とは平日の疲れを癒すためにあるのであって、自分を高める何かをしないといけない日なんかでは決してないのだけど。