「自分のためだけに生きることに飽きてしまったから、結婚して/子供を産んで、守るべき人を作った」という声を、30代以上の人から聞くことが少なくない。私はまだまだ独身の予定だけど、このような声があることは理解できるし、気持ちがまったくわからないというわけでもない。実際、守るべき人のことをあくせくと考えながら毎日を忙しなく過ごしていたら、退屈などする間もなく月日はあっという間に過ぎてしまうのだろう。「私のやりたいことって何……?」といつまでも20代のように煩悶し続けるわけにはいかないし、人生のどこかでこういったフェーズに移行するのは、一般的には健全なことだと考えられている気がする。
しかし、今回紹介するアガサ・クリスティーの『春にして君を離れ』は、そんなふうに守るべき人のため忙しない日々を送っている30代以上の人にとって、ちょっとしたホラー小説になり得るかもしれない(もちろん独身の私も高みの見物というわけにはいかない)。また、ある人は自分自身よりも、自分の親や友人やパートナーを、この小説の主人公であるジョーン・スカダモアに重ね合わせるかもしれない。
トリックも死人も登場しない「ミステリ」
アガサ・クリスティーといえばミステリだけど、『春にして君を離れ』には難しいトリックは登場しないし死人も出ないので、探偵ものなどが苦手な人でもひとまず安心してほしい。主人公のジョーン・スカダモアは、恋愛結婚した弁護士の夫と協力しながら1男2女を育て上げた、聡明で心優しいマダムだ。
ジョーンはどんなときだって、子供たちの幸福を真っ先に考えてきたと自負する。彼らに日当たりのいい部屋を与え、家庭教師や学校選びに苦心し、必要であれば惜しみなく手を貸した。ジョーンの子育ての甲斐あってか、3人の子供たちはみな健康に行儀よく育ち、今ではそれぞれがパートナーを見つけ結婚している。また夫に対しても、ジョーンは献身的に尽くしてきた。弁護士として彼が成功したのは、自分の内助の功があったからだろうと、ジョーンは信じている。平穏無事というわけでは決してなかったけれど、幸せな結婚生活だったーーパートナーと共にバグダッドに移住した娘の急病を見舞った帰り、ジョーンはひとり、旅の途上で自分の人生を満足げに振り返る。これが、物語の始まりだ。聡明で心優しいマダムであるジョーンの生き方は、あまりにも完璧で、読みながらこちらが少し鼻白んでしまうほどである。
そんなジョーンは、鉄道宿泊所の食堂で、偶然にも15年近く顔を合わせていなかった女友達、ブランチに出会う。
「あのかわいらしいバーバラ・レイがあなたのお嬢さんだなんてねえ。ほんとに思い違いってあるものだわ。みんなはね、バーバラのことを、よっぽど問題のある家庭に育ったに違いない。家から逃げ出したくて、プロポーズした最初の男と結婚したんだろう、なんて噂していたのよ」
不躾にブランチが語るバーバラとは、たったいま見舞ってきたジョーンの末娘だ。久々に会った女友達の言葉に、ジョーンは「どうしてそんな話になったんでしょう?」と首を傾げる。読者である私たちもまた、首を傾げる。ジョーン・スカダモアは、子供たちの幸福を真っ先に考え夫にも献身的に尽くしてきた、聡明で心優しいマダムではなかったのか? 『春にして君を離れ』はここから、ジョーンという女性が本当はどんな人間であったのかを暴いていく。難しいトリックは登場しないし死人も出ないけれど、やっぱりこの小説は、紛うことなき”クリスティーのミステリ”なのだ。
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