心の内をすべて開かせようとする松岡修造
先日、松岡修造氏が子供にテニスを熱血指導する番組が放送されていた。出演している子供は不登校や自称マイナス思考、自称短気などといった問題を抱えており、松岡修造氏が彼らに対し「変わりたいんだろう!」「強くなりたいんだろう!」と言いながら泣いたりする。
子供達が松岡修造の指導を仰ぎたいと言ったのかもしれないし、親が行って来いと背中を押したのかもしれないし、劇団所属なのかもしれないし、そこはわからないけれど、ついさきほど出会ったばかりの子供達に、もっと心を開け、もっともっとと強要する松岡氏に、私はとにかくうううっと、やりきれない思いになってしまった。
なぜ子供だからって、なぜ不登校だからって、出会って間もない、信頼関係の全く構築されてないテニスの講師に、心の内を全て見せることを強いられるのだろう。
もちろん、松岡修造氏がご自身のテニスサークルで熱血指導する分には何の問題もない。
長きにわたり成長を見守り、子供達の望むゴールをきちんと共有した上で気分を盛り立てたり、冷静にさせたり、ある程度コントロールしながらゴールに向けてサポートするというのは正しいことだと思う。
それに今回だって松岡氏自身は求められた役割をきちんと演じきっただけなのだろうと思う。
ただ私は、「不登校」「マイナス思考」といった断片的な情報だけをたよりに、テニスの技術を磨くより先に乗り越えるべき壁があるという前提を作り、乗り越えられなければ弱者だと定義する。この状況が何かとても浅ましく感じてしまったのだ。
番組中、子供達はしばしば泣いていた。それが恐怖とか理不尽さから溢れ出る涙だったとは思わないし、あのとき彼らは実際に「自分は弱い」「乗り越えたい」と思っていたかもしれない。
で、プログラムが終了したときには無性に爽快な、やり遂げたような気持ちになったりしたかもしれない。
でも、簡単にこなすのが難しい無理難題を与え、肉体的な苦痛を与えた上で相手の弱さをつきつけ、できないけど乗り越えたいんだろうと煽る。弱い自分を変えたいんだろうとけしかける。
宗教とか啓発セミナーが、人を洗脳し、搾取するために使う手段を、子供の教育という大義名分で用いるのに、私はそこはかとなく疑問を感じてしまったのだ。