努力至上主義で揉まれた私たちの新星「片付けの魔法」

「かわいいは作れる」という余計な認識

ロングヘアーでこちらを見つめる女性の画像

十数年ぶりに独り身に戻って、やっと自由になったと思ったのもつかの間、すぐに「さあ恋愛恋愛!」とどこからともなく聞こえてくる声なき声にせきたてられ、ままならないでいると今度は「何か問題があるのでは?」とお節介な粗探しが始まってしまうわけで、とかくこの世は生き辛い。
そういえば中学の化学の時間に教わった。余ってる手があると落ち着かない、他者と手をつなぎたくて仕方ない原子があると。どうやら人間もそれだった模様。
余ってる手があれば絶えず恋人と手を繋ぎたがる、繋ぎたがりの原子。

だけどその実私はいつだって余った手でスマホを握りしめているから、残念ながら今のところ、他者とつなぐ分の手が余っていないようなのである。
SNSだってチェックしなきゃならないし、キャンディクラッシュのライフが貯まったらまたキャンディ揃えて消さなきゃならない。
不義理をしてはいけないから、リクエストがあれば友人にライフを送るのも忘れてはいけない。毎日とても忙しいのだ。

しかしそんな言い分をにわかに受け入れてもらえないのが現代を生きる我々アラサー女性の悲しい性。
「かわいいは作れる」という余計な認識が一般化してしまったおかげで今やブスは甘え。恋活、婚活という言葉もあるくらいで、恋愛がままならないまま放置するのも甘えだ。
私たちは努力でもって、いろんな不可能を可能にしていかなければならない。

そもそも美容も恋愛も、背泳ぎとか、自動車免許取得とか、スポンジケーキ作りとか、それらと同じように、やってもいいけどやらなくたって生きていけるオプションじゃないのか。
餅は餅屋、「かわいい」は「かわいい屋」、「ドラマのような恋愛」は「ドラマのような恋愛屋」にお任せできたらどんなに楽かと思うけれど、全て実現させねばという妙な脅迫観念に支配されている。

たとえばディズニーランドで1dayパスポート買ったら全部のアトラクションに乗らないと勿体ない、というような考え方と同じで、努力という名のフリーパス(とされているもの)を持っている我々は、あらゆるシーンでそれを行使しながら、よりお得に生きていかなきゃならない、と。
だけどそれを行使するために費やす労力と、それによって得られる「お得」の度合いとが等価であれば、努力をしない分メリットを辞退するという選択だってもうちょっと認められてしかるべきではないか。
アトラクションに乗らずにのんびり過ごしたっていいじゃん、と思うんだけど、どうでしょうか。